風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

月と無花果 弍

最寄りの駅から徒歩7分。築年数が修子とそう変わりない緑山レジデンスは全ての部屋に嵌められている型板硝子の明かり取りと玄関のヴィンテージめいたカットガラスのランプシェードが気に入って即決した。元夫と暮らしていたのはもう七年も前になるので、人気のない明かりのついていない部屋に帰ってくることは慣れている。ただ今日みたいな夜は玄関脇の照明だけでも点けて出れば良かったと少しばかり後悔した。修子は紙袋の底に落ちていた小さな袋を破り、お清めの塩を両肩に軽くかけて、靴を脱いだ。黒いストッキングに窮屈におさまったつま先がじんじん熱を持っているような気がして、そそくさと脱いで丸めて洗濯籠へ放り込む。誰もいない気軽さから、黒のワンピースもするりと脱いでスリップ姿で丹念に手を洗い、うがいをし(鏡の向こうの顔は電車の窓のそれよりもくっきりと青白い(が電車の窓のそれよりも更に焦点が外れて見えるのは何故だろう))、ダイニングテーブルの上に脱ぎっぱなしで投げ置いていたカウチンを羽織って一息ついた。十一月の夜はしみじみと寒い。真冬の突き放したような寒さではなく、寄り添ってくるように滲むように寒いから一層たちが悪い。冷え性なので靴下の上に更にアイスランドロピーで編んだルームソックスを履く。元夫が置いていったカリモクの2シーター(これだけは感謝しかない。感謝も嫌悪も信頼もきちんと共存できるのだ)にずるずると浅く腰掛け、背もたれに頭を預けて目を閉じる。行儀悪くコーヒーテーブルに足をのせて。瞼の裏側に浮かぶ暗いモザイクのような光のなかで、珈琲を淹れたいなあと思う。でもその前にワンピースとジャケットにブラシをかけてクローゼットに仕舞わなければいけないと考えている。

身の丈にあった居心地のよい2DK。物心つく子供の頃から一人が好きだ。それでも諸々の瑣末から目を逸らし、何かを諦めていたならば、こんな時に香りの良い珈琲の一杯でも淹れてくれる誰かがまだそばにいたのだろうかと考えている。いやいやそれは逆だね、と元夫ではなくはるか昔の恋人が首を振る。瑣末から目を逸せないくせに、すぐに諦観したふりするからあんたは失うんだよ。きちんと適切に執着すれば今あんたの隣には香り良い一杯の珈琲を淹れてくれる誰かがいただろうよ。

まあそうね、異論は特にない。