風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

2008-01-01から1年間の記事一覧

But not for me #3

でも、悲しむよりも怒らなければやってらんないほど、私は悲しいってことだ。 「ねえ、このパンちょーおいしい」 センバが私のお皿にころんと丸いパンを取り分けてくれる。シルバーとシャーベットグリーンがグラデーションになっている、綺麗にマニキュアさ…

But not for me #2

ねえ、カンノ覚えてる?あんたタキシードにジーパン穿きたいんだ、って言ってたの。紋つき袴発言の帰り道、並んで歩いているとき言ったんだ。「俺、結婚式は白のタキシードの下にジーパン穿きたいんだよね。タキシードもオーダーメイドでさ、コットンとかで…

But not for me #1

私の隣にいたのはいつも彼だったけれど、私の眸に映っていたのはいつも違う人だった。 眸に映る影も、彼だったなら良かったのに。本心からそう思う。今更ながら切に願う。 そしてこうも言い換えられる。 私の隣にいたのはいつもあなたじゃなかった。私の眸に…

雨灯篭 六

朝から降り続いていた雨は昼を過ぎて霙に変わったようです。墨色の夕闇の中、私はまだ電燈を点けることもせず、畳の上に座り込んでいました。いったいいつからそうしていたのでしょう。足の指先がじんじんと痺れています。無数の細かい針で刺されるような、…

雨灯篭 五

日野さんが紫陽花の株を押し分け裏口に消えた後も、私は暫く灯篭の近くでぼんやりと佇んでいたようです。気がつくと袂がずしりと湿気を含んで冷たくなっていました。鼻の先から頬のあたりまで凍るように冷たく、それなのに胸のあたりは重たく熱い鉛を飲み込…

雨灯篭 四

突如現れた馴染みのない感情に、私は狼狽しました。母を慕う気持ちに一点、落としようのない黒い染みが広がったかのよう。 少女にして私は、自分に視線のあたらない寂しさを知りました。視線を独り占めにする女の忌々しさを知りました。それが母であるという…

雨灯篭 参

日野さんが再び姿を現し始めたのは、梅の花の匂う頃です。その日は隣家の白梅紅梅が、霙混じりの重たい雨の中に淡い香りを沈みこめ、綻びかけの沈丁花は息を潜めるかのようでした。雨灯篭にはいつものように母の手で火がともされ、揺れるような光がちらちら…

雨灯篭 弐

青年の名は日野といいます。父は専門学校の美術教師を勤めていて、彼はそこの学生でした。父は西洋画専攻で、日野さんは日本画でしたけれど、お互い年齢も領域も超えて響くものがあったらしく、出会って一年程はよく家にもいらしって、応接間で二人、葡萄酒…

雨灯篭 弌

雨が降るといつもあの方は、傘もささずに紫陽花の株を、無造作に掻き分け掻き分け、勝手口へと回ってくるのです。 両手にぶら下げているのは、お酒の入った薄青い一升瓶と、とろりとした醤油が入った一升瓶であったり、艶々と濡れたように光る季節ごとの旬の…

少女は皆、毒を持つ

小学校2年生の時、Sちゃんという女の子が転校してきた。おかっぱで、色白。おでこが広く少し受け口の大人しそうな子。Sちゃんはどうしてだか私を気に入ってくれ、私たちはすぐに仲良しになった。日が経つにつれ、大人しそうな彼女はとてもおしゃべりで世話…

ロロ ♯epilogue

「失礼、お嬢さん」 しわがれた声がロロの頭の上から降ってきた。ぎくりとして振り向くと、そこには黒づくめの老人が立っている。『夜』だ!悪夢が蘇る。暗闇のナイフをそのレインコートの下から取り出すのだろうか。思わず目を瞑る。 しかし、老人はロロの…

ロロ Ⅴ♯returned to the ground

すると、四方八方から黒煙のような分厚い雲が集まり始め、とたんに滝のような大雨が降りだした。乱れ落ちる稲妻。吹き荒ぶ風。『夜』の乗った熱気球は嵐の中を右往左往している。青いガラスの中でゆらゆらと蠢くレモン色とオレンジ色の炎は溶けたキャンディ…

ロロ Ⅳ♯Singin' in the Rain

「あのう、歌を歌って雨が降るなら、足元の、ほらあっち、あのオーロラは何が原因で出ているの?」 ロロのはるか北の方向にある足元を見つめて『夜』はふん、と鼻を鳴らす。 「オーロラはワルキューレの鎧が煌めいているだけだ。やつらの行進は『夜』には関…

ロロ Ⅲ♯Lolo became the Night

その瞬間、ロロは何が起こったのか全く分からなかった。見えたのは身体の周りを取り囲む、悪魔のような黒い渦巻。地鳴りと台風が一時に来たかのような轟音と衝撃。ロロとボルはまるでねじり飴のようにぐるぐるとねじれながら洗濯機の中のシーツのように黒い…

ロロ Ⅱ♯a girl meets a mysterious umbrella

ママ特製のベジタブルサモサを頬張りながら、ロロの偵察は続く。冷たいレモネードを飲んで、ため息をつく。見れば見るほどあのおじいさんはおかしいわ。この陽気にあの格好。いかれてる。そうでなければどうしたって魔法使いかなんかじゃないと辻褄が合わな…

ロロ Ⅰ♯in the Sunday park

空は「ぱりん」と割れそうに青く、風は草花の緑の匂い。ポップコーンのかたまりのような雲が泳いでいる。ロロは夏の始まりが心底好きだ。 「ボル、こんな気持ちの良い朝には、きっと妖精だって薔薇の葉影から落っこちてきちゃうわ」 蜂蜜色のやわらかい頬を…

ロロ ♯prologue

ロロは女の子。あなたよりはずっと年下で、君よりはほんの少し年上。 玉蜀黍のひげみたいなクリームベージュ色のごわごわした髪を、いつもおさげに編んでいる。編み方はフィッシュボーン。「Fish bone」、すなわち「魚の骨」。そのネーミングがロロの気に入…

夏宵夢

ええ、そうなんです。この辺りも昔は草っぱらが多くてね、花火の時なんか大人も子供も空き地に集まってわいわいがやがや。今みたいに若い人たちがわざわざ車で出張ってくるようなこともなくってねえ。わいわいがやがやっつっても、まあ大人しいもんでしたよ…

海辺のヨモギ

なぎさ公園近くに住む老夫婦に飼われている猫のヨモギ。彼女の眸には月が隠れていて、ハッカ飴色した毛並みと髭は夜の風で作られている。ヨモギは毎日古ぼけた黄色いワーゲンのボンネットの上で寝そべっているか、なぎさ公園のすぐ裏手にある砂浜まで散歩を…

ヨモギは夢で月を見る

なぎさ公園近くに住む老夫婦が飼っている猫のヨモギは、いつも深遠な哲学者のような顔でボンネットの上に寝そべっている。 その昔、まだ老夫婦が若夫婦であったころには頻繁に動いていたであろう年代物の黄色いワーゲンの上で寝そべる彼女の視線は、太陽も風…

夢の視野

灰色の空。暗く、渦を巻くように低く垂れこめている雲。落ちてくる雨。 雨の中、私はプールサイドに一人立っている。これは夢だと、頭の片隅に覚醒している自分がいる。夢の中の視野は現実のそれとは比較にならないほど広い。 プールサイドに立ちながら私は…

宇宙に雨は降らない

七夕雨。青く煙る窓の外。町は蚊帳を吊るしたように霧の中にすっぽりと沈み込んでいる。 子供の頃、七夕といえばいつも小さいマンションには不釣り合いなわさわさとした大きな笹を母は買ってきて、金銀五彩の折り紙で絢爛豪華に飾りたて、短冊も書くのは私と…

バスタブの人魚 Ⅳ

「もしあんたが人魚になったら何したい?」 と彼女に聞かれたことがある。 僕の腰から伸びる銀色の尾。イルカのように波を掻き分け青い海を進むのは、空を飛ぶのに匹敵する爽快さだろう。しばし思いを馳せてうっとりとする僕を、彼女は妙に生真面目な顔で眺…

バスタブの人魚 Ⅲ

彼女は毎日僕の話を聞きたがる。 「今日は何をしたの?誰と遊んだの?天気はどうだった?怪我はしてない?明日はどこへ行くの?」 美術の授業で友達の絵を描いて、昼休みにサッカーをして、空は晴れてソフトクリームみたいな雲があって、どこにも痣ひとつ擦…

バスタブの人魚 Ⅱ

彼女は時として砂糖菓子みたいに優しい時もあるし(ごく稀だ)、時としてクラゲみたいに意地の悪い時もある(基本的にだいたい)。 彼女の口癖は 「アイスクリームを買ってきて」 「ピンクの薔薇を摘んできて」 「私の髪にはターコイズブルーのヘアバンドが似合…

バスタブの人魚 Ⅰ

僕の家のバスタブには人魚が棲んでいる。 と、話したら、クラスのみんな笑うだろうけど(そしてそれは好意的な微笑ではなく嘲笑だろうが)、事実うちのバスタブには人魚が棲んでいる。 ある金木犀の香りのする夜、バスルームのドアを開けると湯気の向こうには…

月とピストル

三人の女。嘘つきが一人。 ピストルを片手に 一人目が言う。 「昨日、星をひとつ殺したの」 欠けたグラスを傾け 二人目が言う。 「私は二人の男と眠ったわ」 月を見上げて 三人目が言う。 「私は夢を紡いでた」 三人の女は目を閉じる。 二人は思い出を映すた…

中学一年生の冬の思い出。 冬の放課後は埃っぽく、鼻の奥がつんとするような冷たい空気の中、原宿で買った安物の(赤とくすんだ水色とグレーのストライプのプラスチックのような感触のアクリルで編まれた)マフラーを口元まで覆うように巻いていると体温の高…

風呂場の蜜柑色の夕陽

お風呂に入浴剤は欠かせない。 薔薇の香りのバスソルトを入れることもあるけれど、どちらかというとバスクリンのような入浴剤のほうが好きだ。 お湯に靄のように広がる入浴剤の色が子供の頃から好きで、しばらくかき混ぜずにその色の渦巻く様子を眺めている…

アクアリウム

昔読んだ澁澤龍彦の小説に、海の水で詩を書くと薄青い文字が綴られる、というような光景があった。うろ覚えなので間違えているのかもしれないけれど。 その頃住んでいた家の近くにはプラネタリウムが併設されている大きな図書館があって、小学校から高校にか…