風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

雨灯篭 四

突如現れた馴染みのない感情に、私は狼狽しました。母を慕う気持ちに一点、落としようのない黒い染みが広がったかのよう。

少女にして私は、自分に視線のあたらない寂しさを知りました。視線を独り占めにする女の忌々しさを知りました。それが母であるということが私を苦しめ、その痛みを抱きながら私は枇杷の葉影の下、立ち尽くすしか術がなかったのです。心の奥底に眠る私の中の「女」というものが目覚めるのが恐ろしかった。それはやがて燃え盛る炎のように私を焼き尽くし、骨までも食らい尽すでしょう。私は享楽的な父の血も引いているのですから。

雨が降るとお腹が痛くなります。神経性のものでしょう。下してしまうこともしばしばになりました。それでも私はじくじくと痛む下腹を押えながら日野さんの白い横顔を見つめ続けるのです。ちらりと向けられる微笑みを待つのです。不意に投げられる餌を待つみすぼらしい雀のように。もう、これが私にとっての初恋というものなのか、それとは別の、もっとどろどろとした何かなのかはわかりませんでしたし、わかりたくもありませんでした。

二度目の夏の終わりのことです。八月の終わりの雨は、まるで秋雨のように冷たく、白くけぶるようにしょうしょうと空から落ちておりました。しかし母はその日、鎌倉の叔母の買い物のお供で銀座に出かけていたのです。雨の中、朝から二人の人間が、相変わらず父は坂の下へ、母は名残惜しそうに迎えの車で、家を後にしました。そうして家には、母が嫁入りのときに一緒に連れてきた母の乳母で、もう七十近くになるばばやと私の二人きりになりました。

裏庭の雨灯篭に火を灯したあと、部屋に戻って本をめくったり、おはじきを瓶からざらざらと取り出してはまた入れたり、花かるたを好きな図柄の順に並べてみたりと、私は午前中をそわそわと落ち着きなく過ごしました。幾度も窓から庭を眺めます。雨灯篭はまるで火の玉のようにゆらりゆらりと揺れ、まだ八月だというのに私は鳥肌が消えません。時計の針はそろそろ十二時十分を指します。私は母の部屋に入り、鏡台の引き出しをあけ、貝殻に入った練り紅を取り出しました。表面が薄く玉虫色に光る朱紅。油臭いような甘いような匂いのそれを薬指にほんの少し取り、唇の上へ乗せます。紺地に牡丹のモスリンの着物を着て、辛子色に濃い緑の縞の昼夜帯。いつもとなんら変わりない格好なのに、鏡の中の私は誰か知らない女のようでした。それはあの、見たこともない坂の下の女に似ているような気もします。

階下でおとないの気配がしました。ばばやが応対しているのでしょう。階段を駆け下り、私は番傘を持って裏庭へと降りました。

「それでは」と響く低い声がして、勝手口からあの方が出ていらっしゃいました。心なしかやつれて見えるのは、母のいない落胆のせいかと思うとまた鳩尾のあたりがぐうっと熱く痛みます。痛みを押しつぶすかのように、私は傘の柄を握りしめました。

「綾子さん」

不意に声をかけられ、頬のあたりをなでられたようにびくりとしました。いつもであれば、葉影に佇む私にあるかなきかの微笑みを投げかけ、俯いたまま裏口を出て行ってしまうのに。今日は私の目の前に立ち、私のことを見つめているのです。色素の薄い、美しい眸。綺麗な白い手が私の肩の方へと近づきます。この方は私の唇の紅に気がつくでしょうか。一度枯れた紫陽花の株が、一斉に青紫に咲き誇るような心持がしました。この方は、私の頬を染める血の温かさに気がつくだろうか。

「申し訳ないのですが、これをお母さまに渡していただけますか」

日野さんはそう言って、私に白い封筒を渡されました。宛名には「柳子様」とだけ書かれています。視界に日野さんのシャツとその封筒の白とがいっぱいに広がるようで、目眩がしました。それはやはり煮え立つような嫉妬の炎のせいです。幻の中の紫陽花はまた褐色に枯れ萎み、頬からは冷たく血の気が引きました。私の唇の紅にも気付かず、頬の赤みにも気付かず、あなたはやはり母しか見ていない。この狭い裏庭の中で、降りしきる雨は私の涙なのだと思いました。灯篭に灯った火は、私の行きどころない心です。

日野さんは「必ず、是非に」と仰いました。私の眸の奥をまっすぐに見つめていれば、そこに炎が見えたであろうものを。