風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

雨灯篭 参

日野さんが再び姿を現し始めたのは、梅の花の匂う頃です。その日は隣家の白梅紅梅が、霙混じりの重たい雨の中に淡い香りを沈みこめ、綻びかけの沈丁花は息を潜めるかのようでした。雨灯篭にはいつものように母の手で火がともされ、揺れるような光がちらちらと、雨の中浮かぶようです。あの方は裏口から飛び石を踏みしめ、両手に藍鼠色の風呂敷をぶら下げていらっしゃいました。唇からこぼれる熱のこもった白い息。形の良い耳が霙の冷たさに、色づきかけた梅の実のように赤く染まって、頬から顎にかけての白さに映るかのようでした。

二階の窓からそれらを認めた私は久しぶりの訪問に嬉しくなって、階段を駆け下り「母さん、日野さんいらしたわ」と声をかけると、母はすでにお勝手でお茶を沸かしていて、すぐそばのテーブルでは日野さんが頬杖をつき、母の背中をぼんやりと眺めているのでした。

その時持っていらしたのは、料理用のお酒です。日野さんの持ってくる物はすべて母の手にかかずらうものでした。鰯や鱸、蜆、芝海老などの魚介類、谷中の生姜に練馬大根、筍、銀杏。壺に入った砂糖の時もあれば、味噌や醤油、お豆の入った餅、ハトロン紙で包まれた美しい西洋菓子、鈍く光るジャムの缶、泥濘のように艶やかなチョコレイト。

大人になるとついつい忘れてしまうものですが、子供というのは思う以上に敏いものです。雨の日に繰り返される訪問。その言い訳のようにぶら下がる、母の為に見繕った品々。テーブルの上から母の背中に彷徨う視線。そこに横たわるものが恋であると気がつくのにそう時間はかかりませんでした。そうしてほんの少し寂しい思いがしたのも事実です。

初めのうちは久しぶりの訪問が嬉しくて、私もお勝手のテーブルに一緒に腰かけ、母と三人お茶を飲みながら、雨の午後を過ごしていましたが、日野さんの視線の切実さに気づくにつれその場にいるのがいたたまれなく、雨の日はいつも自分の部屋の窓からその影を眺めるか、庭の枇杷の葉影でおはじきやビー玉の入ったガラス瓶を握りしめ、その瓶越しに歩いていく日野さんの横顔を見つめたりしていました。

一度日野さんが戯れに、「綾子さんの似顔を描いてあげようか」とおっしゃいました。私は自分でもよくわからない羞恥にかられ、「綾子なんかよりも、母さんの御顔を描いて差し上げたら」と切り口上で言い放ち、部屋に駆け戻ってしまいました。後ろで紅茶茶碗ががちゃんと割れる音が聞こえましたが、振り返りませんでした。立ち上がった時にちらりと眼の端を掠めた日野さんの苦いような悲しいような困り顔と、母の狼狽したような薄赤い顔が忘れられません。そう、私はその時それらを汚らしいと思ったのです。なぜそんな風に感じたのか、今でもそれはわからないのです。

日野さんに対する私の思いというのは、まだ淡く、恋と呼ぶには程遠い所にあるものでした。それでも、日野さんに想われる母に対するその思い。どうやらそれは嫉妬らしいのです。

雨灯篭四