バスタブの人魚 Ⅳ
「もしあんたが人魚になったら何したい?」
と彼女に聞かれたことがある。
僕の腰から伸びる銀色の尾。イルカのように波を掻き分け青い海を進むのは、空を飛ぶのに匹敵する爽快さだろう。しばし思いを馳せてうっとりとする僕を、彼女は妙に生真面目な顔で眺めていた。
「君はもし足があったら何がしたい?」
と僕が聞き返すと、いつものように彼女は頬杖ついて、ちょっと眉を顰めるようにして
「あたしはあんたとお揃いの黒のコンバース履いて、コンクリートの道を歩いてみたいわ」
と、つまらなそうに答えた。
彼女の足はきっとすんなりと細くしなやかで、サマーブルーのショートパンツなんか似合いそうだ。
手を繋いでアイスクリームを食べながら歩く。想像したら少しばかり恥ずかしくなって、そしてなぜだか少し哀しくなった。
恋って、波打ち際で砂のお城を作り続けるようなものだなあと思う。徒労を徒労だと思わない人間がきっと恋の勝者になれるんだろう。そして幻を真実だって信じられる人間も。
僕はどうだろうか。
雨の名残の匂いする夏の朝、彼女はバスタブから消えた。
出会いと同じく、唐突に。
残されたのはいつかプレゼントしたアクアブルーの便箋にしたためられた短いメッセージだけ。
“ありがとう。いつかまた、二人の海で”
海になんて、僕たちは行ったことないくせに。女の子って表面上はひどくセンチメンタルなくせに、その実呆れるほどあっさりしていて、凄く残酷だ。
それから暫くは(夏の星座が冬の星座に切り替わる頃まで)、彼女がどこか僕の知らないバスタブで、僕の知らないどこかの気の弱そうな男に向かって
「あたしはあんたとお揃いの真っ白なスタンスミス履いて、芝生の上を歩いてみたいわ」
なんて、海の底みたいに魅惑的なブルーアイズを潤ませながら言ってるんじゃないかと思うと、それだけで心臓の真ん中辺りに魚の骨が意地悪く刺さってるみたいなじんわりした痛みが走った。
多分、僕はいつかまた女の子に恋をするだろうけど、また再び繰り返されるであろう知恵の輪にも似た面倒くささや、擦れ違いの勘違い、数多繰り返される我が儘や、甘い視線といつも対になっている意地悪な言葉なんかを思うといささか気が滅入る。
だってきっと人魚だって人間だって、女の子はいつだって女の子だ。
大事にしてやらないと壊れてしまう。でも大事にしてたって簡単に手のひらから零れ落ちちゃうんだ。
-了-