風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

海辺のヨモギ

なぎさ公園近くに住む老夫婦に飼われている猫のヨモギ。彼女の眸には月が隠れていて、ハッカ飴色した毛並みと髭は夜の風で作られている。ヨモギは毎日古ぼけた黄色いワーゲンのボンネットの上で寝そべっているか、なぎさ公園のすぐ裏手にある砂浜まで散歩をする。海に行くまでの道のりには、煙草屋のネリ婆さんもいるし、この春生まれた白川タマのとこの3匹の子猫たちもいる。片目のつぶれた黒猫のアンガスもいるし、魚屋のご主人も、肉屋のおかみさんも、喫茶店のマスターもいる。ヨモギが挨拶するべき相手はすべてこの道のりにいる。ヨモギが作り出す小宇宙の一角。

砂浜をつま先で歩いて、いつものすべすべした平らな岩場に寝そべりながら、海ってなんなのかしらね、と、たまにヨモギは考える。寄せては返す波。ざぶーん、ざばーん、さばさばさば、ざぶーん、ざばーん、さばさばさば。海辺を満たす波の音を聞いていると知らず知らず眠たくなってしまう。ざぶーん、ざばーん、さばさばさば、ざぶーん、ざばーん、さばさばさば。

青いゼリーのような海は、のんべんだらりと行ったり来たり。

海はあんまり大きすぎて、どこにも行けなくてかわいそう、とヨモギは思った。海が見られるものといったら、空と鳥と砂浜ぐらいだもの。退屈で退屈で、それが永遠に続くのだという絶望感に身をよじって波が起こるのかもしれない。

蜂蜜のような陽の光の中、ヨモギは溶けるバターのようにべたりと目を閉じる。人気のない海の家の奥から流れるトウモロコシの焼けるぽろぽろと香ばしい匂い。桜の花びらのような鼻をふんふんとうごめかす。

「夏はやっぱり焼きトウモロコシね。あの匂い、わくわくしちゃうわ」

と、ヨモギの頭の上からきらきらと水が零れるような声がする。左目だけをちらりと開くとアクアブルーのビー玉のような二つの眸がヨモギを見つめている。月の光のような髪の毛に、水晶色のきれいな尾ひれ。尾ひれの部分をお造りにしたら、何皿分くらい出来上がるかしら。

「舌舐めずりでもしそうな顔でじろじろ見ないでくれる?」

ヨモギの隣に腰かけて、人魚は煙突の煙のように不機嫌そうに言った。ヨモギは少しばかりばつが悪くなり、でもあんたなんてたかがお魚の親分みたいなものじゃない、と思いながら言い返す。

「あなた人魚ね?人魚ってその昔泡になって消えちゃったんじゃなかったの?」

老夫婦の家には古い大きな本棚があって、ヨモギはいつも本を引きずり出しては爪を砥ぐ。たまたまアンデルセン童話集で爪を砥いでいるときに、おばあさんがやってきて人魚姫のお話を読んでくれた。おばあさんは自分自身のために読んでいたのかもしれないが、ヨモギはきちんと礼儀正しく最後まで聞いていた。ガラスのように儚く美しいお話。

「へえ!猫のくせによく知ってるわね。でもあれって、てんで嘘よ。人魚はね、死んだらクラゲになるの」

鼻にしわを寄せて人魚が言う。ぶよぶよで意地悪なアイツよ、と。

「クラゲになってね、優柔不断で間抜けな王子さまに復讐をするの。ひゅるひゅるっと腕や足に巻きついてばちばちばちっ!」

けらけらけら、と人魚は珊瑚のような唇で美しく笑う。ヨモギは疑り深そうに横目で見上げる。

ほんとうよ、泡だなんてそんなきれいな終わり方、絶対にしないんだから。少しむきになって人魚が言う。

汐風は月光色の人魚の髪と、ヨモギのハッカ飴色の毛並みを柔らかくなでて陽の光の中に溶けていく。鼻腔から喉に抜ける、しおはゆい風の匂い。

「じゃああんたもほんとうのほんとうに死んだらお月さまんとこに行くのね?だってクラゲは死んだらお月さまのとこに行くって言ってたわ」

すると、人魚は心底軽蔑するといった風に顔を青ざめさせて言った。

「あたしはね、お月さまなんて大っきらいなの!」

月光色の髪の毛がまるで青光りの稲妻のように逆立っている。あいつがいなければいつだって、千年もの昔からあたしたちは平和だったわ、と声を震わす。

あんたの髪の毛お月さま色ね、なんて言ってたら殺されかねなかったわね。くわばらくわばら、とヨモギは思う。

「月の光を浴びるとあたしたち、人間にも姿が見えるようになっちまうのよ。そうしたら船乗りだって王さまだって大統領だって詩人だって例外なく、みんなあたしたちに恋をしちゃうんだわ」

憤懣やるかたないといった風情でため息をつく。それからずっと小さな声でこう続けた。そしてあたしたちだって誰かのお姫様になれるんじゃないかって錯覚しちゃうんだわ。

「人間の男なんてお人好しで優柔不断で軟弱でいやんなっちゃう。あたしそんなバカな男のためにクラゲなんかになりたかないわ。だから月のやつが出てくる晩は海の底に隠れてやるの」

青いゼリーのようだった海の色がいつのまにか金色の混じった薄水色に変わり始めている。汐風はその奥にほんの少しの冷たさを隠しながら柔らかく柔らかく波の上を走る。雷を含んだソフトクリームのような雲も今はもう、すぺん、と平らに伸びて縞々になった切れ間から、傾き始めた太陽のレモネードのような光が射している。

「ねえ、それじゃあ恋をしないで死んだ人魚は何になるの?」

ひげを慎ましげにそよがせてヨモギがそっと聞く。髪の毛と尾ひれをきらきらと光らせて、

「恋をしないで死んでしまった人魚はね、貝殻になるわ。砂浜に落ちてる細くてきれいな巻き貝を見たことがある?あれはね、賢い人魚の美しい遺骨よ」

と、人魚は誇らしげに言う。

「あたしはもう200年生きてきて、これからまだ400年は海で暮らすだろうけど、最後はきっと青くてきれいな貝殻になるわ」

ヨモギには少し寂しげに聞こえたけれど、それは落ちていくレモンのような儚い光のせいかもしれない。

じゃあね、と水晶色の尾ひれを振って、人魚は海の底へと帰って行った。今宵は満月だから、きっと海の底の底で一人、不機嫌な眠りに落ちるのかもしれない。

水槽のような青い夕暮れの中を歩きながら、恋が実った人魚が何になるのかを、聞き忘れていたことにヨモギは気づく。恋が実らなかった人魚はクラゲになって、恋をしない人魚が貝殻になるのなら?

(ああそうだ、お母さんになるんだわ、きっと)

そうよそうよ、とひげを揺らす。3軒隣の白川タマのように、肉屋のおかみさんのように、町角ですれ違う乳母車を押す母親のように。人魚の赤ちゃんはきっとアザラシのようにぴちぴちと跳ねまわるに違いない。

ぐるぐるる、とおなかが鳴いた。勝手口から魚を炊く匂いがする。たちうおかしら、と鼻をうごめかす。おばあさんの作る太刀魚の生姜煮は薄味でほっこりとしていてとてもおいしい。

ヨモギは自分が母親になって子猫にごはんを分け与えるところを想像する。そうするとなぜかその団欒の中に黒猫のアンガスがいて、ヨモギはそっと鼻の頭を赤く染めた。