風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

夏宵夢

ええ、そうなんです。この辺りも昔は草っぱらが多くてね、花火の時なんか大人も子供も空き地に集まってわいわいがやがや。今みたいに若い人たちがわざわざ車で出張ってくるようなこともなくってねえ。わいわいがやがやっつっても、まあ大人しいもんでしたよ。大人しいってもあなた、普段に比べりゃ天と地の差ではありましたけどねえ。ご近所さんが縁台なんかまで出してね、おかみさんが西瓜切ったり、どっかの大将が一升瓶持ち出したり。昔話ですからねえ、盆と暮れくらいにしか楽しみがない時代でしたわね。昔は花火も品があったわねえ。今みたいに紫だの青だの桃色だのがちゃがちゃしてなかったねえ。あたしはね、あの萩の花がパアって落ちてくるみたいな橙色の花火が一等好き。さああっと降ってくるようでねえ。綺麗なもんです。今みたいにまあ親の敵かってくらいにぽんぽんぽんぽん打ち上げるんじゃあなくってね。ぱあっとなって、どおん。で一呼吸。それでもってまたぱあっと光って、どおん。一つ打ちあがるたんびに空がね、古い黒板塀みたいにのったりした色になってねえ、そこを煙がふわあっとなってお月さんが顔を出す。それもまた風情がありました。あんだけ息つく間もなく打ち上げられちゃあ、あなた、お月さんだって顔出す暇ありゃしませんよ。

そうそういつだか、顔見知りの書生さんがね、顔見知りったってすれ違いに会釈する程度の間柄でねえ、で、その人がたまたま下宿から出てきたときにね、あたしもちょうど花火見に行こうと下駄鳴らしてるとこにばったり出くわしてねえ。夜だし祭りだし気も高ぶってたんでしょうねえ。いつもはぷいっと頭下げて行っちまうのに、屋根の向こうにどおんと上がった花火見ながら突然、「花は?」って聞くんですよ。あなたご存じない?ほら梶井の。あたしも読んでたんですけどね。すぐにあっと思ったんですけどね、その頃はまだ男も知らないような時でしょう。ただもじもじ下向くばかり。その人さびしそうにちょっと笑って行っちまった。後追って声掛けようにも掛け方知らない、子供でしたねえ。いえね、別に恋ってほどのもんじゃあないし、そんな時代でもなかったけどねえ。たまに夢に見るんですよ、「花は?」ってあの人が聞いてね、あたしが「フロラ」って答える。萩の花が落っこちてくるみたいに橙色の花火が幾つも上がってねえ。そんな夢。別に恋ってほどのもんじゃあないんですよ。いえいえ、ほんとに。なんてったって娘がもう十九になるんですからねえ。恋だの何だの夢みたいなこと口走る年じゃあないのよ。ああ、ほら、あすこ、紺地に白抜きの藤の花の浴衣の。いない?おかしいねえ。どこいっちまったんだろ。暮れ時からは白地の浴衣にしなさいって言ったんですけどねえ。白地に撫子の浴衣。だって夜自体があなた、ぼんやりしたみたいな紺色なんだから紛れちまいますよ。

あら、どっかで鰻焼いてますよ。この匂い。いいわねえ。浅草のねえ、どじょうって言えば駒形さんなんだけど。あたしはどじょうの泥臭さ苦手でねえ。鰻のが断然好き。つるやってとこに行きましたよ。あの頃はまだ父も母も若かったわねえ。今でも思い出しますよ。父はパナマなんかかぶってね、なかなかきりっとした男前でした。母も白地の絽のうすもの召してね、桔梗の柄の。で、露草の日傘なんかさして、娘ながらも綺麗だなあ、なあんてね。それで鰻はぱりっとふかふかしていてねえ、噛みしめるたんびに唾きがじゅわっとでてきちゃう。ほんとおいしゅうございました。食べた後は肌もつるつるするみたいでねえ。なんだか眼だの頭だのもすっきり良くなったような気がしたもんです。

あらあら、ありがと。でもそんなに呑めませんよ、もう。ええ、ええもうこれで結構です。麦酒は麒麟って主人なんかは決めてましたけど、あたしは味なんてわからないですからね。恵比寿さまでもサッポロでもなんでもかまやしない。ああ、鰻の匂いだねえ。こうお腹がぐうっとする匂いなのね。あたしは昔つるやって店に行きました。ご存じ?浅草なんですけどねえ。父も母もあんなに若かったのにねえ。今じゃあもう土の下。最近じゃあ二人の顔立ちも朧でね、あたしもそろそろかしらねえ、なんてこの頃は思っちゃう。だってあなた、娘がもう五十。孫が二十三だか四にもなるんです。習い事だのコンパだの、盆にもなかなか帰ってこれないみたいに忙しくしているみたいだけど。別にさみしかありません。こっちは案外さっぱり、清々したもんですよ。

あら、あなた、あれ蛍の火じゃあないかしらん。それとも煙草の火かしらねえ。まあどっちにしたって、どうでもいいんですけどね。ああ、あなた、冷や戴けるかしら。麦酒はどうもおなかが膨れていけないねえ。ああ、また花火が上がって、ちらちらと。ほら、コップに橙が映って消えて。人も思い出も、ああいうもんかもしれないねえ。