風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

少女は皆、毒を持つ

小学校2年生の時、Sちゃんという女の子が転校してきた。おかっぱで、色白。おでこが広く少し受け口の大人しそうな子。Sちゃんはどうしてだか私を気に入ってくれ、私たちはすぐに仲良しになった。日が経つにつれ、大人しそうな彼女はとてもおしゃべりで世話好きだということが分かった。だからぼんやりあまりしゃべらない私を気に入ったんだろうな、と勘繰った。

学校が終わると、よくSちゃんの家に遊びに行った。鍵っ子だった私は、ランドセルを家に置き、牛乳を飲んで戸締りをして暗いマンションの階段を駆け下り、Sちゃんちに向かう。彼女の家は庭付き二階建ての一軒家。1階にはおばあちゃんが住んでいて、二階にはSちゃんの両親とお姉さんとSちゃんが住んでいる。以前はお父さんのお兄さんが住んでいたという。隣にある古いアパートはおばあちゃんの持ち物らしく、Sちゃん曰く「おばあちゃんが地主だからお父さんがクビになってもロトウに迷わない」らしい。地主というのは多分、家主の間違いだろうが。

10畳ほどのリビングにはエレクトーンと趣味の悪い革張りのソファ。変なレース柄のぼこぼこしたビニールがべったりと張り付いているガラスのテーブル。淀んだ青緑色の分厚いカーテンにグレーと茶色が混じったような絨毯。ダイニングの入り口にかかった木のビーズの簾。お昼なのに点けっぱなしの蛍光灯。冷蔵庫の中みたいな匂いがする。他人の家の、鼻に馴染まない匂い。

Sちゃんの家にはおもちゃも漫画もたくさんあって、ジェニーちゃんやらリカちゃんやら、ゴムの匂いのするすべすべの人形が6人ほど。彼女たちのぐちゃぐちゃになったぴらぴらしたドレスもプラスチックの籠にてんこ盛りになっていて、当時流行っていたシルバニア・ファミリーなんぞ、もう何だか最早「森」といったくらいの動物たちがいた。私の家には家が半分しか作れないレゴと、バービーが一体。ぬいぐるみがちらほら。その当時、父親の収入の4分の3は本妻の方に収められていたし、母親は技術職で割といい稼ぎをしていたらしいが、将来のこととか諸々考えるともちろん余らせるお金はなかったのだろう。

私たちはまず「歌って!ナナちゃん」やら「あさりちゃん」なんかを読む。すぐにお母さんがおやつを運んできてくれる。紅茶にケーキ、オレンジジュースにスナック菓子。私の家には通常、麦茶と牛乳しかなかったので、結構斬新だ。ご飯の時に飲むのは牛乳か麦茶。食後は日本茶か牛乳を入れた珈琲。お菓子が常に家にあるということもなかった。お母さんがすっぴんというのにも驚いた。お父さんが夕方6時に帰ってくるというのも衝撃的だった。炊飯器を生まれて初めて見た。我が家ではいつもガスで炊いている。そういうものだと思っていたので、これは何?と聞いて驚かれ、そして笑われた。

Sちゃんはどうやら人形たちは他人に触らせたくなかったらしく、漫画を読み終えるといつもそそくさと私を庭に連れ出し、ままごとを始める。ブロック塀の内側の陽のあたらない、雑草と湿った土の匂いのする狭い空間。このままごとは私もわりかし気に入っていた。なぜならそこに本物の七輪があったのだ。白っ茶けた古いひび割れた七輪。その上に、やはりひびが入ったり、縁が欠けたりした皿を載せて、葉っぱやら花びらやなんかの実を載せて料理をするふりをする。本物の七輪があるのとないのとではままごとの完成度は全く違うと、今も私は思っている。

Sちゃんは『お姫様の姉妹が悪い魔女のせいでお城を追われて森でひっそり健気に暮らしている』というシチュエーションをこしらえて、いつも自分が姉姫様になり、かいがいしく妹君である私の世話を焼いてくれた。いつか誰かが救い出してくれるらしい。それまでは魔女に気づかれずに息を潜めて暮さねばならない。私はといえば、全然そんな筋立ては嫌だったので、勝手に『森に棲む魔女が石の家(ブロック塀の内側だったので)に籠って煎じ薬や、毒薬を作って村人に売りさばいている』という筋立てを考えていた。七輪の上で煮詰められる毒薬や、塗り薬といったイメージはとても魅力的だ。

私が密かに魔女になっているなんてこと露とも知らず、「さあ、お食べ」と言って、姉姫様は豆のスープ(らしい)を下さる。「私はいいから、あなたがお食べなさい」と。「私は町に降りてこの金の櫛を、パンとミルクに換えてくるわ。もう少しの辛抱よ」。そんな彼女を見ながら、一体なぜ彼女と遊んでいるのか、とひんやり考える魔女の私がいる。

ある時、Sちゃんが「薔薇の花びらっておいしいんだよ」といって、庭の赤い薔薇をむしっておもむろに口にした。食べてごらんよ、と無理やり花びらを握らされ口に入れたけれど、薔薇の香りと植物の青臭さと、花びらのもそもそしゃきしゃきとした舌触りしかせず、全くおいしいと思えなかった。さも美味しそうに二枚、三枚と食べている彼女を見て、嘘つき、と思った。私も相当嫌な子供だったのだ。

雨が降る日はリビングで絵を描く。絵というか漫画だ。彼女は自分の描く「女の子の顔の輪郭」に多大なる自信を持っていて、その自負ゆえ、私にも自分と同じ描き方をさせようとするのだけれど、彼女の描く輪郭はまるで太った茄子みたいだから嫌だ、と思い、そのままを口にすると怒って黙り込んでしまった。ああ、面倒くさい。今の私も不思議に思う。なんで君は彼女と遊んでいたんだろう。面倒くさくてほったらかしにして絵を描き続けた。お互い自分の方が上手いと思っているなら、それでいいじゃないか。鉛筆を走らせる。なんだかんだ煩く言われるならば、ユニコーンの絵でも描こう。

「Rちゃん(私のことだ)、私、Hくんが好きなんだ」

しばらくの沈黙の後に、唐突に言われて戸惑った。今なぜこのタイミングで?

Hくんと私は入学以来、とても仲が良い。彼の住む団地の小さい公園でブランコ飛ばしをしたり、一升瓶の蓋をUFOに見立てて宇宙戦争ごっこをしたり。Sちゃんが来る前、毎日遊んでいたのは、彼だ。そうだ、私どうしてHくんと遊ばないんだろう。毎日Hくんと約束する前にSちゃんが「今日遊ぼう」と声をかけてくる。わずらわしいなあ。ぼんやりと何も答えない私を見て、じれったそうにSちゃんは、

「ねえ?私Hくんが好きなの。Rちゃん協力してくれるでしょ?」

と言った。上目遣いでこちらを窺うその表情は今思うと、すでに大人の女だ。Hくんのことは好きだの何だの、そういう気持では全くなかったけれど、その上目遣いと押しつけがましさが気に食わず、何も答えてやらなかった。それに協力と言われても、具体的に何をすればいいのかさっぱりわからない。

三年生にあがるときにクラス替えがあって、SちゃんともHくんともばらばらになった。彼は二学期前に転校していってしまった。引っ越しの前に自宅でお別れ会を開くとのことで、誘われたけれど行かなかった。彼は引っ越しの前日だか当日だか、家まで来てハンカチと水風船とお母さんが作ったポシェットをくれた。何も用意していなかった私はお気に入りの青いインク瓶をそのまま彼に渡した。

お別れ会に出たSちゃんは何ももらっていなかった。ざまあみろ、という気持ちがあったのは確かだ。小学校3年生の私は意地悪な子供だったろうと思う。

でも、子供なんて実際はそういうものだとも思っている。