風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

ロロ ♯epilogue

「失礼、お嬢さん」

しわがれた声がロロの頭の上から降ってきた。ぎくりとして振り向くと、そこには黒づくめの老人が立っている。『夜』だ!悪夢が蘇る。暗闇のナイフをそのレインコートの下から取り出すのだろうか。思わず目を瞑る。

しかし、老人はロロの肩越しから乾いた流木のような手を伸ばして、傘の柄をつかんだだけだった。貝殻を振るような音。黒いレインコートのこすれる音。それでもロロは身体がこわばって動けない。石像のようなロロとボルを残して、振り向きもせず『夜』は立ち去っていく。

その真っ黒な影が木の陰に消えた。ロロはほっ、と息をついて、呟いた。

「ボル、あのおじいさんは『夜』じゃなかったのかしら。でもあれが夢だなんて到底思えないわ」

その時、ロロの耳元をひんやりとした風とともにぞくりとするようなしわがれ声が吹き抜けた。

「命拾いしたな、おちびちゃん」

驚いてあたりを見回しても、そこにはいつもの公園があるばかり。でもロロは見つけた。自分の肩のあたりに銀色の粉がちらちらと輝いているのを。

「星の屑だわ!ボル、やっぱり私たち夜になっちゃってたんだわ!不思議の扉は開いたのね!夜の中であんたの声が聞こえたわ。私たち、最高のコンビよ!」

ロロはボルの両手をつかんで嬉しさの余り、くるくる回りだした。心臓を切り取られそうになったことなんてすっかり忘れちゃって。それを見ているコットンキャンディマンは、ああ、またロッキさんとこのちびは空想ごっこしているよ、なんて思っている。

帰り道、ロロは走って走って飛び跳ねて、早くママに話さなきゃ!ああ、パパにも話さなきゃ!大騒ぎ。ボルは跳ねまわるロロの肩の上で迷惑そうにブルーアイズを光らせている。

バージェス時計店の前をロロとボルはスキップしながら通り過ぎた。薄暗い店の中からは、二人を見つめる四つの眸。二つの眸は夜の闇のようにまっ黒で、もう二つは氷のように冷たい灰色。店内に立ち込める、珈琲の香ばしい香りと煙草の甘い紫色の匂い。そしてチクタクチクタクとせわしなく動く、無数の時計の針の音。古ぼけたランプはぼんやりとした橙色の光をシェードにまとっている。

真っ黒な方が灰色の男に向かってぶつぶつと呟いている。

「だいたい私はもう一本ソーセージを買いに行っただけなんだ。ほんのちょっとの間目を離しただけなのに」

「あんたは油断しすぎだったんだ。夜の傘をガキに取られるなんざ恥ずべき大失態だ」

灰色の眸の男はそう言って煙草のけむりを吐き出す。真っ黒は聞こえないように舌打ちして、珈琲を飲み下した。

「じいさん、あんたは俺に感謝してもらわないとな。いまさら審判の門なんて、ぞっとしないだろう」

灰色が冷たく言い放った。真っ黒のほうは苦々しげに呟く。

「わかってる。お前さんがあそこで時間を逆戻ししなけりゃ、あのまま私は時間の穴に落ちていた」

そうしたらきっと時の番人に気づかれ、傘をなくすという自分の大失態はばれ、そのまま審判の門まで引きずられていただろう。待っているのは永遠の消滅。その点では『時計』に感謝しなければならない。時の番人の下で働く『時計』たちは無数にいる。その中の一人が一部始終を見ていて、おまけにこちらの味方をしてくれたことはたぐいまれなる幸運というべきだろう。なにせ奴は上司を裏切ったのだから。しかし、何が目的だ?見返りはなんだ?相手のしわひとつない無表情な顔が不気味に見える。

『夜』はいぶかしげに『時計』を見つめた。『時計』は何事もなかったように、テーブルのヴァイオリンに手を伸ばす。

その旋律はカヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲。ゆっくりとガラスが砕け散るような美しい旋律。『夜』はなぜだか背筋がぞくりとした。

―Story is over(but is it true?)―