風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

ロロ Ⅱ♯a girl meets a mysterious umbrella

ママ特製のベジタブルサモサを頬張りながら、ロロの偵察は続く。冷たいレモネードを飲んで、ため息をつく。見れば見るほどあのおじいさんはおかしいわ。この陽気にあの格好。いかれてる。そうでなければどうしたって魔法使いかなんかじゃないと辻褄が合わない。

ベンチの老人はソーセージを食べ終わり、今はコーヒーをゆっくりゆっくり飲んでいた。ぼんやりと若いヴァイオリン弾きを眺めている。カヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲。硝子がスローモーションで砕けていくような美しい旋律。ロロはなんだか眠たくなってしまう。

しかし、瞬きすらしてはいけないということをスパイは常に心に留めておかなければいけない。ほんの一瞬の心のゆるみが死に繋がるのだから。でもそれは本物のスパイのお話。ロロが失ったのは命ではなくて、おじいさんの行方。

ベンチの老人はロロの一瞬の心のゆるみをついて煙のように消えていた。

「ああ!ボル、どうしよう!『夜』に逃げられちゃった!」

ヴァイオリンからは相変わらず美しいカヴァレリア・ルスティカーナの旋律。ロロの右手には食べかけのベジタムルサモサ。噴水の周りには退屈そうな曇り空色の鳩たち。でも『夜』は?彼はどこに行ってしまったの?ぐるぐるとあたりをせわしなく見渡すロロの耳にボルの声が聞こえたような気がした。

「ボル?あんた今何か言った?」

寡黙なボルはいつものように聡明な眸で世界を見つめている。その視線の先にあったのは、ぽつんと置き忘れられた老人の黒い蝙蝠傘だ。ロロの心臓がイルカのように跳ねあがった。目の前に夜のもとがある。ロロはするりと飛行艇から降り、そぉっとベンチに近づいていく。一歩、二歩。心臓は跳ね上がりっぱなし、首から上はわんわんわんと耳鳴りで膨らむよう。ヴァイオリンの旋律は100光年も彼方へと去ってしまったようだ。蝙蝠傘が近づいてくる。もうロロには風景すらも止まって見える。コットンキャンディマンもヴァイオリン弾きも鳩も木々すらも、息をつめてロロを見つめているような気がして背筋が冷たくなる。でも現実には誰も、時間すらもロロのことなんか気に留めていない。大丈夫。

ロロの小さな手が、冷たい傘の柄を握りしめる。その瞬間ロロは全速力で飛行艇へと駆けもどり、ボルとバッグをひっつかんで梔子の植込みの中へと飛び込んだ。

「ボル!ねえボル!わたし生まれて初めて泥棒になったわ!」

頬を芥子の花のように真っ赤に染めて、叫ぶように囁いた。心臓はまだ太鼓のように打ち鳴って、手は強く握りしめすぎて指先が硬く白くなっている。足はへたくそな操り人形のようにがくがく。泥棒なんて、人生に一度っきりで十分だわ。

ロロは梔子の匂いを深呼吸をして、目の前の戦利品を見つめた。オニキスのようにつやつやと光る傘の柄。鴉の羽のようにねっとりと黒光りする布地。留め具は煙水晶色の硝子釦。そっと振ってみると、砕いた貝殻を硝子鉢の中で揺するような、しゃらしゃらとした音が微かにする。耳を押しあててみると、波のような、風が唸るような、不思議な音が聞こえるような気もする。襞になっている布地の内側を少し開いて覗き込むと、果てしなく暗く黒いゆらゆらした波のようなものと、そこを流れる銀色の砂粒のようなものが見えた。

「ボル、この中に夜があるわ!やっぱりこれは『夜』の傘よ!」

ボルのブルービーズの眸がきらきらとロロを見つめ返す。開いてみようよ、と言っているかのように。ヴァイオリンの響きはいつの間にか夜の女王のアリアになっている。扇情的なヴァイオリンの高音。ボルの深い青色の眸。金色のシャワーのような木漏れ日と、ジャグラーが空高く飛ばすカラフルなディアボロ。ヴァイオリンの、絹糸を張り詰めたような細い高音。

ロロはオニキス色の傘の柄を握りしめ、一気にばさりと『夜』を開いた。