風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

中学一年生の冬の思い出。

冬の放課後は埃っぽく、鼻の奥がつんとするような冷たい空気の中、原宿で買った安物の(赤とくすんだ水色とグレーのストライプのプラスチックのような感触のアクリルで編まれた)マフラーを口元まで覆うように巻いていると体温の高い獣のような匂いがする。

部活が終わるとあたりはすでに夕闇も濃く、上の空から藍色濃紫薄水色薄紅色と夜が降りてきていて、正門に通じるエントランスの蛍光灯だけが水槽のようにぼんやりと光っていた。

蛍光灯の明りの下、美術の岡田先生が脚立に座っていた。

岡田先生は絵に描いたような美術教師だった。少し白髪の混じったぼさぼさの頭に無精髭。よれよれのベージュのジャケット、焦げ茶のコールテンのズボン。

煙草くさいだの、お酒くさいだの、女の子達は彼に文句ばかり言う。でもそんなの大人の男として当たり前だと思っていた。それに遠くから見ると如何にも熟した柿のような匂いのしそうな彼が、近くによるとハッカと煙草とオイルの混じったような匂いがすることも知っていた。そしてそれは私にとって嫌な匂いではなかった。

青白い蛍光灯の下、脚立に座った美術教師が声をかけてきた。

「これとそれ、どちらがいいと思う」

天井からワイヤーを垂らして、生徒達の水彩画を吊っていたらしく、エントランスはへたくそな絵で沢山の暖簾ができていた。

“これ”は先生が持っていて、“それ”は私のすぐ右手にあった。“これ”の方は淡い色合いでデッサン自体がうまく少女漫画のよう。“それ”の方はなんだか勢いだけで書いたようないびつな男の子の顔だけの絵。五人が五人“これ”の方を選ぶだろうなあと思ったけれど、その時はなんとなく“それ”の色の鮮やかさに目を奪われた。

「“それ”のが好きです」

というと、先生はにやりと笑って

「お前なかなか見る目がある」と言い作業に戻った。

そのまま完全に夜が落ちてくるまで作業を手伝うことになってしまったのだけれど、早く帰りたいとは思わなかった。誰もいないがらんとしたエントランスはしんしんと足元から皮膚を切るように寒かったというのに。

ごわごわとした水彩画たちを吊り終えると美術準備室でインスタントの珈琲と濡れせんべいとべっ甲飴をご馳走してもらった。

牛乳を入れない珈琲はべっ甲飴と意外に合うのだなあと思った。濡れせんべいはいまいちだったけれど。

そんなことを思いながら星を眺め眺め帰る道すがら、なぜだか知らないけれど息苦しいほど切なくなって驚いた。恋でも憧れでもないのになぜ胸が痛いのか。甘いような苦いような不快なような不可解なときめきをもてあましながら夜道を歩いたのを覚えている。

大人になった今はなんとなく岡田先生を嫌悪していた女の子たちの気持ちがわかる。彼女たちは彼女たちなりに彼の放つ大人の男の毒気というようなものを本能的に感じ取っていたんだろう。それをきちんと危険なものとして無意識に判断していたんだろう。

私は無防備なままその毒気にあてられて参ってしまったということだ。