風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

雨灯篭 六

朝から降り続いていた雨は昼を過ぎて霙に変わったようです。墨色の夕闇の中、私はまだ電燈を点けることもせず、畳の上に座り込んでいました。いったいいつからそうしていたのでしょう。足の指先がじんじんと痺れています。無数の細かい針で刺されるような、細かいガラス片の入った布袋を押しつけられるようなむずむずとした痒みにも似た痛みが私の足全体を襲います。

のろのろと立ち上がり、電燈の紐を引っ張るとかちりと音がして蛍光灯の白が弾かれるかのようにぱあっと畳の上、天井の木目に散らばりました。人気のない屋敷の中は、降りしきる雨の湿気でどよりと空気を重たげに凍りつかせます。

裏庭に面した雨戸をがらがらと開け、足音にも似た霙の音を灰色の闇の中に聴きながら雨灯篭を見つめました。あの運命の手紙が届いてから此の方、灯篭に火が燈されることは一度もありませんでした。温められることなく月日を経て、抹茶の粉のような苔に覆われた灯篭はどこか妖怪じみて見えます。

あれからもう四十年もの月日が流れました。その間に私は二度縁づきましたが、最初の夫とは死別し、婿養子として迎え入れた二度目の夫はいつかの父のように女と姿を消しました。美しかった母は父の遁走から数年の後に胸を病み、花が萎れるが如く静かにその命を終えています。

霙はぼしゃりぼしゃりと土の上で音を立てながら、暗い空から降り落ちてきます。開け放たれた雨戸の向こうから、しんとした冷たさと夜の黒が渦を巻きながら部屋の空気を満たします。その冷気を飲み込むように深呼吸をすると、眼の端にゆらりと揺れるものがありました。紛れもなくそれは雨灯篭の火です。ああ、また、と私は自分の唇が意に反して柔らかい笑みを浮かべるのを感じました。本当は恐ろしいことのはずなのに。

ここのところ雨が降ると誰が火を燈すわけでもないのに、雨灯篭がぼんやりとした青白い光をその中に抱いている時があります。母の姿が、あるいはあの日の恋する青年の姿が陽炎のように揺らめくこともあるのです。私はそれを見ると、懐かしささえ覚えます。踏みにじった美しい花の残骸を見つめるような心地良い懐かしさを。そうして同時に、暗い穴底へと墜ちていくような恐ろしさを覚えます。二人の眸は深い憐憫を湛えているのです。

かわいそうに、かわいそうに。あの子は愛するものに愛されず、愛されていることには気がつかない。あの子は二度と前を見ることができない。それなのに振り返ることもできない。いつまでも亡霊ばかりを追い求めて泣いている。隣で愛を囁く者にも気付こうとしないで。かわいそうにかわいそうにかわいそうに。

私は見えない亡霊の放つ聴こえない声に耳を塞ぎます。そうしてこんな夜にひとり、沼のように冷たい夜風の中で身を縮めていると思うのです。

幸せとは与えられるものでも、与えるものでも、ましてや奪うものでもなく、幸せとは「気づくこと」なのだと。父は母から向けられる無償の愛のその温かさに気づくことなく、母は父が持て余している孤独に気づくことなく、私はその二人から注がれる希望に気がつくことなく、私たち家族は各々自分勝手に、ふと眼を凝らせば落ちている幸せから目を逸らしていたのかもしれません。そうして亡霊ばかりを追い求める私は、二人の男から与えられた生きた愛に目を向けることもできなくなっていました。

時計の針がじがじがじがと響くだけの静かな夜に、ひとり畳に頬をつけ目を閉じると、そこには雨灯篭の青い炎。亡霊の声ばかりが響く庭。今でも枇杷の葉影の下には、眼ばかり大きく見張り、唇を真一文字に引き結び、紺地に牡丹のモスリンの着物に辛子色と濃い緑の縞の入った昼夜帯を締めて、重たげにおかっぱの髪を雨に湿らせた少女が佇んでいるような気がする時があります。

私はもう気が狂っているのかもしれません。

―了―