風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

眠りの窓

あるところに、「眠り」という名の窓を持つお城がありました。

何千年もの昔から堅く閉ざされているその窓は、霧雨の降るような銀色の窓枠が天井近くまで大きくとられ、そこに嵌め込まれた硝子は不思議なことにどれだけ磨こうと霜のような曇りを拭うことはできないのでした。

眠りの窓のある部屋には「時間」という名の小さな王女が棲んでいます。

その小さな王女は生まれてこの方、眠りに落ちたことがありません。「時間」という名をさずかってしまった以上、彼女は決して眠ることができないのです。王女は自分が味わったことのない「眠り」という名前のついた窓を、甘美な恋人を見つめるかのような眼差しで眺めながら日々を送るのでした。

王女は幾たびかその窓を開けようと試みたことがありました。仮にも「眠り」という名前をさずかった窓です。それを開けることが出来るのならば、もしや私を眠りの世界へと誘ってくれるのではあるまいか。

しかし窓はまるで壁に塗りこめられているかのようにびくともしないのでした。

王女は窓をあけるために、世界中の鍵職人を呼び集めたこともあります。鍵職人たちはありとあらゆる形の鍵を持ち寄りましたが、その中で眠りの窓に合う鍵は一つたりともありませんでした。

もちろん、合鍵を作ろうとした鍵職人もおりましたが、型を取ろうとその鍵穴を覗き込むと同時に眠りに落ちてしまい、それから百年もの間目を覚まそうとはしませんでした。

それを見た他の鍵職人たちは、百年も眠りに囚われてしまうのじゃあ大変だというので、皆ほうほうの体で城を逃げ出してしまいました。

仕方なく王女は斧でその鍵を壊そうとしたこともあります。小さな王女は精一杯の力をふりしぼり、大きな斧をその窓めがけて振り下ろしました。

びゅわん!

空を激しく切る音が王女の耳に響きました。小さな両手を衝撃が襲い、いまにもがらがらと硝子の割れ落ちる音が聞こえるのではなかろうかと思われたその時、王女の耳元でなにものかが低く囁きました。

「まだその時ではない」

驚いた王女が斧から手を離すと、斧は一瞬にしてぼろぼろと錆び付き、柄は灰色に朽ちて、そのまま砂のように掻き消えてしまいました。

しかし辺りを見回してみても、王女以外に人影は見当たりません。

哀れな王女は、眠りの窓に傷一つ残すことはできませんでした。

それからまた千年の時が経ち、王女はもう窓を開けようとは思いませんでした。

彼女は相変わらず一秒たりとも眠ることなく、自分の体を絶え間なく流れる「時間」の音に耳を澄まし、その霧雨降るような銀色の窓を眺めながら、いつかその外の世界を見る日を夢見て日々を過ごしていました。

それは絶望というものなのかもしれませんし、あるいは幸福にもとてもよく似たものなのかもしれません。

そうしてとうとう雲雀啼く春のある夜、王女は病気になりました。病はとても重たく堅牢に彼女の四肢を蝕み、身体に流れる「時間」の音は「死」の足音へと変わるようでした。

寝台に力なく横たわり、うつろに窓へと目をやると、不思議なことに硝子の曇りは水で洗ったかのように流され、ダイヤモンドのようにきらきらと光っています。霧雨色の窓枠は月光色の銀の光へと変わり、まるで王女の方へと手を差し伸べるかのように光を伸ばしています。

ああ、今ならあの窓もひらくのかもしれない。王女は裸足のまま寝台を降り、身体を引きずるように窓へと手を伸ばしました。灼熱の砂漠で水を求める者のように。

その瞬間、窓は風を大きく孕んだ帆のようにその硝子の羽を広げ、王女の目の前には眩しいほどの空の青が広がりました。その青はあまりにも青過ぎて、寧ろ暗闇に見えたほどです。

その一瞬に、王女はどうしてだか自分の体を刻む「時間」の音をとてつもなく愛おしく懐かしいものに感じました。しかしそれもほんの一瞬のこと。

神様の唇から零れるような眩しい光は王女を包み込み、眠りの腕の中へとその美しい人を運びました。

どれだけの時がたったのでしょう。雲雀が高らかに声をあげました。

寝台には王女の亡骸が、美しいままに横たわっています。

眠りの窓がひらき、時間はその命を終えました。

世界は永い眠りに包みこまれ、時計の針は進むことをやめ、次に来るべき王女のために窓はその鍵を堅く閉ざしました。