風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

月と無花果 弌

消し炭色の薄い雲の裏には貝釦のような薄い月が控えている。あのジョーゼットのような極薄い雲を風がそうっと動かせば、皓々と光る満月が出てくる。修子はいつも見惚れてしまう。ビルから吐き出された人たちは、川の流れのように淀みなく修子の傍をすいすいと通り過ぎ、また通り過ぎ、立ち止まって空を眺める修子はその流れを堰き止める岩のようだ。オフィス街の、ある程度広く取られた歩道ではあるが、それでも家路を急ぐ人たち(或いは他に目的の場所のある人たち)の多いこの時間、道の真ん中で立ち止まる人間は異質に映る。通り過ぎる幾人かは修子にちらりと目をやり、すぐに興味を失ってそれぞれの目的地へと急ぐ。誰も修子の視線の先を確認するものはいない。視線の先を目で追う男か女がいればそこから物語が始まることもあるかもしれないが、格別美しくもなく、容姿の平凡さをカバーするような若さもない修子の視線を追うような誰かはいない。いずれにせよ、修子自身物語の始まりを望んでいるわけでもない。

風が動いて雲をゆっくりと押し、月が顔を出した。ベールを剥いだ花嫁のように美しく傲慢な顔している、と修子は思い、ヒールの踵のところで少し弛んでいるストッキングをそっと引っ張り直して、岩から従順な流れへと戻り、駅の改札へと急いだ。月というものはほんとうに、目が洗われるほど、清々しいほどに美しい。

 

金曜日の二十時、車内は混み合っている。腕を組み、車窓を眺める。外の景色をみたいと思っても、夜の黒さは窓を鏡にしてしまい、見たくもない自分の顔を眺めることになる。家の鏡より数割り増しに見える。それでも輪郭は二十年前と比べて緩やかに(美しい言葉で表すならば)なっているし、唇も痩せている。自分は経年を愛している方だと思う。時に抗うよりは流れに身を任せてしまった方が、人の体は自然であると思っている。それでも何か忘れ物をしてきたような気になる時があるのだ。これは二十代の頃には、いや、三十代の頃にも解らなかった感情だ。四十になった途端、茫漠とした「どこか」へ確実に戻れなくなった。その「どこか」は過去でも未来でもいい。四十歳という年齢に足を踏み入れた途端、修子は人生の余白というものを失くした気がした。そういう余地というのか、猶予と呼ぶのか、白地の部分の大半を失くした気がするのよね、と笹尾に話したら、あんたはすぐそうやって老成ぶるのが嫌だね、と鼻で笑われた。まあね、確かにね。でもさ、例えば朝の通勤電車。白い搗き立て餅みたいな腿を曝け出して、一心不乱にマスカラ塗っているような女子高校生なんかを見ると、あの場所はここから数光年ほど離れた場所であることよ、なんて思うのよね。あの傍若無人で無垢な野蛮さにはどう足掻いても、もう手が届かないわよね。あんたそんなもんに戻りたいことでもあるの、と笹尾は不思議そうに聞いたものだ。別に戻りたいわけでも、ましてや羨ましいわけでもないけれど、確実に自分もその場所にいた、という事実が実体として目の前に現れると少しばかり混乱する。あれはいつかの私である(化粧はしなかったけど)、なんて思うと、ちょっとしたSFよ。ああ、まあねえ、それは少しばかり恐怖かもねえ、とその時笹尾と飲んでいたのはシナモン珈琲だったっけ。照明を落としたあのカフェの深い緑のソファは笹尾の白い肌に似合っていた。

もう一度鈍く反射する車窓の中の自分の顔をひと睨みする。帰ったらまず珈琲を淹れよう。丁寧に。