カザリちゃん「潮騒」
電車に乗って1時間。海の匂いがする道を歩いて20分。
その建物が見えてくると、カザリちゃんはいつも
「お豆腐みたい」
だと、思うのだった。白く、鋭角な形の、あれは絹ごし豆腐の形。木綿じゃなくて。
建物の名前は「しおさい荘」という。まるで民宿のような名前だけれど、ここは老人ホーム。
六年前の春から痴呆が始まったカザリちゃんのおばあちゃんは五年前の夏の終わりにこの豆腐のような形した老人ホームに入った。
カザリちゃんのおばあちゃんは、するすると糸がほどけるように、記憶も思考もほどけてしまったのだった。
絹ごし豆腐のなかは病院のような清潔な匂いと、お味噌汁とご飯の蒸れるような匂い(昼時なのだ)、そうしていつも拭いきれないといったような、古びた匂いがする。
カザリちゃんはこの匂いが嫌いじゃない。この古びた匂いはどこか日向くさいような、温かみがあるから。
暗証番号を入れないと動かないエレベーターで三階に上がる。このエレベーターは外国の冷蔵庫みたい、とカザリちゃんはやっぱりいつも思うのだった。外国の冷蔵庫なんて、見たことはないのだけど。
エレベーターを降りて左手にはコミュニティスペースと呼ばれる広間があって、右手は各部屋に分かれている。カザリちゃんのおばあちゃんである雛子さんは、突き当たりからひとつ手前の部屋にいる。
「おばあちゃん」
カザリちゃんが声をかける。
雛子さんは窓際に椅子をずらして、ちょこん、と座っていた。窓からは海が見える。曇り空の下、のたりのたりと灰色に揺れる海。
雛子さんはゆっくり振り向くと、しずしず立ち上がって、
「あらまあ、お祭りの、鬼の子かしらねえ」
と楽しそうに言うのだった。
雛子さんはもう六年前から痴呆が始まっていて、今はもう娘であるカザリちゃんのママのこともおぼろげのようで、孫であるカザリちゃんのことは全く忘れてしまったようだった。
最初、カザリちゃんは「おばあちゃんが忘れてしまった自分」というものをとても悲しく思ったけれど、今は訪れるたびに蝶々だの、昔遊んだ幼馴染のヨシノちゃんだの、今日のように鬼の子だとか、おばあちゃんの見る百変化の自分を面白く思う。
おばあちゃんはきっと、違う世界の目を手に入れたんだなあ。
「お母さん、吉田さんから四万温泉の塩羊羹頂いたから半分持って来たわよ。あとねえ、津黄子の編んだショール。あの子お母さんに似て器用よね。そういう血だけはあっちにいっちゃったんだわ、きっと」
てきぱきと、ママはお土産や紅茶の缶だのを抽斗に仕舞ったり、戸棚に入れたりしている。雛子さんはまるで、何も見ていない。
ツギコちゃんが編んだショール、綺麗。おばあちゃんの綿飴みたいな髪の毛に似合ってるなあ。
と、カザリちゃんは思う。
ママの妹の津黄子さんが編んだそのショールはまるで夕暮れの、日が落ちきる前の薄く光るような菫色で、それは雛子さんの銀色がかった白髪にとてもしっくりと似合っていた。
ママの言葉にはまるで反応しないで、雛子さんはショールを手に取り
「かあさん、どこへいったのかしら。肩掛けがないと寒いのに」
と、うろうろと目を泳がす。
「カザリ、ちょっとおばあちゃんお願いね。ママ、事務所の人のとこ行ってくるから」
じゃあ、お母さん、私ちょっと下に行ってくるから、とママは部屋を出て行った。雛子さんはショールを手にしたまま何度も扉に向かってお辞儀をしている。カザリちゃんはそっと肩を抱いておばあちゃんをベッドに座らせた。
おばあちゃんの目は灰色のビー玉みたいな色。
呆けていない頃のおばあちゃんの目はこういう色ではなかったなあ、と思う。
あの頃のおばあちゃんの目は缶に入った茶玉飴のような、つやつやと張りのある焦げ茶色だった。
でも今の、曇りの日の水溜りみたいな灰色の目もきれい。おばあちゃん、どんな世界を見てるんだろう。
「おばあちゃん、ツギコちゃんのショール綺麗だね」
「あれ、あなた、誰だっけねえ」
雛子さんはぐるりとまた元の場所に戻った。この女の子、誰かしら。
「カザリだよ。カザリ」
「へえ、カザリちゃん。お正月みたいな名前ねえ。わたしはね、わたしは誰だかわからないのよ。もうずうっとねえ、もうずうっと考えてるの」
「おばあちゃんは雛子さんだよ。三月生まれの雛子さん。雛祭の雛子さん」
「まあ、雛子なんてそんな華やかなねえ、名前、どこで聞いたかしら。昨日はお客さんがあって、これなくて、せっかく炭を焚いたのに」
とんとん、と扉が鳴って、女の人が顔を出す。
「千田さん、向こうでお昼食べる?それともこっち持ってこようか?」
こんにちは、と、カザリちゃんは挨拶をして、お昼をこちらに持ってきてもらうことにした。
お昼ご飯は全部がゆるゆると溶け出す寸前のような、柔らかく崩れた形をしている。雛子さんは皺しわとした骨ばった手で、存外しっかりとした動きで箸をつかむ。ゆっくりゆっくりと箸を口に運び、その倍の時間かけてもぐもぐと咀嚼する。
カザリちゃんは向かいの椅子に腰掛けて、来る途中に買ったばってらを出して、食べた。つん、と甘い酸っぱい匂い。この上に張り付く昆布が好きなのだ。
「おばあちゃんも食べる?」
と、聞くと、雛子さんは、あらどうも、すみません、と頭を下げてひとつつまんだ。
「お鮨はいつも勘助と決めていたのに、あそこも味が落ちたね」
だってこれはスーパーのだもんなあ、とカザリちゃんは首をすくめる。
おばあちゃん、変なとこで急に現実的になるなあ。
雛子さんはぶつぶつとよくわからない言葉を呟きながら、台布巾を掴んでごしごしとテーブルや自分の椅子の肘掛を拭きだす。
「あのねえ、内緒の話。これはね、悪魔なんだから気をつけなさい。あなたね、内緒で教えてあげるけど、これは悪い魔物ですよ」
雛子さんは声をひそめて、皿の上のほうれん草のお浸しをつまんでテーブルの上に捨てた。
へちゃり、と、テーブルに張り付くどろどろになったほうれん草のお浸しは、まるで黒ずんで見えて、そうね、悪魔に見えなくもないね、とカザリちゃんは言った。
「あのねえ、ほんとうのところ、悪魔はいろんなところにいるからねえ。ああ、わたし、口紅どこにおいたっけね。名前、名前もね、どこかにねえ、置いてきてしまったみたいで」
「口紅は抽斗だよ。おばあちゃんは雛子さん」
「ねえ、まあ、雛子だなんて、まるでお酒でものみたくなるみたいな名前。どこのお嬢さんかしら」
そう言って口許を押さえて、くくく、と笑う。
皺しわと小さくなった雛子さんの顔は、それでも薄くなった皮膚が柔らかく白くほんのりと薄く赤く、なんだかまるで空善くんの家にこないだ生まれた赤ちゃんの頬のようなのだった。
「おばあちゃん、きれいだね」と言ったら、雛子さんはぼうっとビー玉の眸を曇らせて
「ああ、ぜんぶ、どこいったかしら。鏡も本も、ぜーんぶ」
と、呟く。
ママが戻ってきて、三人でお茶を淹れてお土産の塩羊羹を食べた。来週津黄子が来たときに一緒に食べなさいよ、とママは言って、半分残ったそれをラップに包んで、冷蔵庫に仕舞った。
それでも次、私たちが来た時にもその塩羊羹は冷蔵庫でかちかちと冷たくなったまま、まるで永久にそこにあるかのように、いるだろう。そのまま化石になってしまうだろう。
私たちが扉をあけた途端、おばあちゃんはカーテンを閉めるように自分の世界から私たちを切り離す。
まるでほんとうに、違う世界の人みたい。あのビー玉の灰色は、もう完璧に私たちを映さない。
「カザリ、ママね、ママは、おばあちゃんはかわいそうなんかじゃないと思うの。おばあちゃんはおばあちゃんなりの始末のつけかたをしていると思う」
ママは言った。
散々、まわりから「大変ですね」「雛子さん、かわいそう」「痴呆は辛いですね」と言われ続けた頃に、不意に、宣言するかのようにカザリちゃんに言ったのだった。
それ以上のことを、ママは何も話さなかったから、本当にはどういうことなのか私にはわからないけれど。
それでもカザリちゃんも、おばあちゃんはただかわいそうなだけではないと感じる。
カザリちゃんの耳元を、ぶわり、と汐の香りが吹き抜けた。