風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

明け方の夢

夢の中で百日を過ごした。

私には現実だけれどあまりに突飛なので概要だけを記して、記録は他にとる。

まあ概要だけで充分突飛かもしれないけれど。

豪奢なホテル。まわりは海に囲まれる。ホテルの中には公園も森もある。ありとあらゆる人種、種族、生物が横行する。

空気は猥雑で美しく清々しい。活気に満ちている。

あてがわれた一室は魚眼レンズのような窓が壁に嵌め込まれていて、猫足のバスタブの隣に天蓋付きのベッドが置かれている。作り付けの本棚は小さいのに闇のように深い。

(仮に)Oという名の青年が私に声をかけた。

「夢のターミナルに留まるなんて珍しい」

人は生まれながらに各々「夢のターミナル」を持っている。眠りはここに意識を運び、意識は夢を選択する。選び取られた夢は意識をステージと呼ばれる(いわば私たちが見る夢の中)場所に連れていく。ターミナルの形は人によって様々だ。

ターミナルは中継地点であるからそこに留まることはできないし、そこの記憶を「夢」として持ち帰ることはできないのに、とOは言う。

「あの海の向こうが、ステージ。××も色んな夢を見るだろ?」

どうも混乱する。今、ここは夢ではないのか。

「ここは、だからターミナル。夢になる前の君の(なんと言ったか覚えていない)」

眠りについた私の意識は汽車でこのホテルに運ばれ、Oやその他の夢たちを選び取って、彼らは私をステージに連れて行くらしい。いつでも。今までも。

背の高い、禿頭の初老の男性とすれ違う。ふわふわと耳の上に少しばかり残る白髪。皮膚の薄そうな、薄赤い肌。ビー玉のような青い眸。白いTシャツ、縦ストライプのハーフパンツに、薄手の紺色のガウンを羽織っている。どこかわからない言葉で話しかけてくる。でもなんと言っているのかわかる。

「久しぶり」と言っているのだ。

目を逸らしたくなるような怪物もいる。犬も猫もライオンも。日本人も、外国人も。男も女も。幽霊たちも。

「××はほんとうに沢山の夢を見るから、ここのホテルは大繁盛だよ」

と、Oがいう。

私はそのホテルで百日を過ごした。毎日入れ替わり立ち代わり、客が訪ねてくる。

私を覚えている?俺を覚えているか?

そうして不思議なことに大半の夢を私は覚えていて、あの夢に連れて行ったのはあなただったのか、と懐かしさに震えるほど感動するのだった。

あの時の隣にいたのはわたしよ。セブンスノウジャック、と叫んだのは俺なんだぜ。

ああ、本当にここというのは実在の世界だったのだ。これはもう郷愁に似ている。それでも自分がいなければいけない世界はここではないことを知っているから、私はひどく悲しい。戻らなければいけないだろう。いや、その前に戻されるだろう。

ホテル内の森でY(仮に名前をYとする)に出会った。Oは言う。

「重要なステージにたどり着くときはいつだってYだったよ。知っていると思うけど」

「新宿の夢を覚えている?あの時××はこれがもうひとつの実在の世界だということに気がついて、一緒に連れて行ってくれ、って頼んだんだ」

覚えている。私はまだ子どもだった。まだ11歳だか12歳で、Yはただのシルエットだった。

「草原にふるスローモーションの雨を眺める夢は?」

勿論、覚えている。あの時の背中はYだった。

あのときのこと、あのときのこと。Yが語る全ての夢は私にとっていつでも重要で美しくリアルで、醒めるのが怖いほどに執着したものたちだ。

「どうしてターミナルに来れたんだ」

と、Yが不思議そうに呟く。

ばかばかしいと思われても、私がYに抱く感情は愛だ。執念がこの場所に留まらせたんだろうか。

百日目、部屋にはOとYと隣人たちがいた。床に寝そべり、いつものように取り留めない会話をする。Yはいつでも私の背中に寄り添い、ここはひどく居心地がいい。Oが気づく。

「歪んでいる」

天井が歪み、壁が歪み、魚眼レンズの形した窓ガラスが外れ、海の底深くへゆっくりと落ちていく。入れ違いにそこから巨大なレールが浮かび上がる。その上を巨大な機関車が走る。割れるような汽笛。爆風。

「覚醒だ」

Oが言う。その絶望的な顔が今でも私の心に張り付く。長く留まりすぎたんだ、と。覚醒はいつだってステージの中。ターミナルに侵入することは決してないのに。

Oも隣人たちも私を乗車席に押し込む。私は「帰らない」と抵抗する。Yは何かを失う前の悲しい顔をしている。

「早くしないと破綻するぞ」

思い出した。覚醒はいつだって氾濫だ。何もかもが一切なだれ込むかのような氾濫なのだ。目の前の全てが見えなくなる前に私はYを両腕に抱きこみ同じ乗車席に押し込んだ。手を伸ばして本棚から指先に触れた二冊の文庫本をYに押し付ける。

「夢を連れて帰ることはできない」

と、Oが叫んでいる。汽笛は狂ったように鳴り響き、もうなにもかもが見えなくなる寸前だ。

Yに本を押し付けて、叫ぶ。

「この本を持っていて。私はきっと探すから。これは目印。これがあれば私、絶対にYを見つけるから」

一冊の本には「海」と「調」の字があった。もう一冊にはカタカナ表記の名前。表紙のはがれた、岩波文庫のあの茶色い

私は夢のターミナルからYを連れたまま覚醒してしまった。

それでもあの氾濫のなか、手を離してしまったのだろうか。私の隣にはいま、Yがいない。

11月26日、午前4:50に目が覚める。

時間だけ確認してまたすぐに眠る。

次に7時に目覚めるまでに、100日を過ごす。

単に夢なのだと位置づけられても、私にとって現実だったならばそれだけでいいと思う。