風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

十二月朔日 neko kodomo

師走の空は途端に冬の横顔をみせるのだ。葉を落とした木の枝が葉脈のように空に伸びる。干乾びた檻のようだ。

白く冷たい雲がその中でもがくように流れていく。

食欲がない。猫には缶詰を半分と、牛乳を用意する。自分の為には何もする気が起きず、縁側に座ってキャドバリーのフルーツ&ナッツを齧りながら煙草を吸った。空がとても淡く、遠い。

 

祖父母の家にはリンツのチョコレートがいつも置いてあった。白雪姫のイラストが書いてある、青い包みのチョコレート。初めて食べた時は世界で一番美味しいチョコレートだと思った。あのチョコレート、今でも売っているだろうか。

今日はどうやら全てに無頓着でいたい日のようだ。二本目の煙草に火をつける前に、冷蔵庫から缶ビールを、テーブルの上から読みかけの文庫本を持ってきて庭のベンチに腰掛けた。十二月の初めの風はちくちくと冷たい。ビールの泡は舌から喉から鳩尾へと、ぱちぱちと快い痛みを走らせる。本の中では相手に同化することでしか相手を愛することのできない可哀想で恐ろしい女が丁度最初の夫を亡くしたところ。るるるるる、と電話が鳴っている。本を伏せて居間に戻る。

 

「ヤマネ?」

電話の向こうから中村の声が聞こえた。今あんたのとこの駅にいるんだけど、今から行ってもいい?と言う。良いも何も、もう駅まで来てるんだったら来ればいい、と答えると、じゃああとで、という声の後ろで猫のような声が聞こえた。

縁側の向こうは曇りと晴れがまだらのようになった、陰影に富みすぎる空。ぱらぱらと音がしそうな陽の光。本とビールを家の中に移動させて、薬缶を火にかける。

 

きっかり15分後に姿を現した中村の後ろには、ちんまりとした男の子が隠れていた。猫のような声の正体はこの子だったのか。おはよう、と声をかけると中村の足の間から「おあよう」と囁くような声だけが聞こえてきた。

 

「いくつだっけ?」

「夏が来たら4歳。こないだ話したじゃない」

「猫でいえばもう私たちと同じ歳くらいだね」

「どうして猫に換算するのよ」

 

中村がその猫ではなくて子どもの靴を脱がせ、コートを脱がせしている間に珈琲を淹れに台所に戻った。

 

お土産、と四角い平らな包みをテーブルに置く。子どもは炬燵近くの座布団に丸まる猫が気になるようで、遠巻きにじいっと眺めている。しゃがんでいると大福餅みたいだ。丸まるとしていて、柔らかそうで。

 

「名前、なんていうのよ」

 

中村は出産したからといって写真入の葉書を送ってくるような性質ではないので、今の今まで彼の名前を知らなかったのだ。

 

「皓」

「こう?」

「蛾眉皓歯の皓」

なんていう、説明の仕方だ。普通、明眸皓歯の皓、だとかいうんじゃないかと言うと、明眸皓歯は楊貴妃を例えていった言葉でしょう、それはやだわ、と鼻に皺を寄せた。

「それに、あまり見ない字ではあるけど書きやすいでしょ?白に告だもの」

「中村皓って良い名前のようだね」

「だから、中村じゃないんだって」

 

当の本人はまだ猫に気を取られている。猫のほうは徹頭徹尾、我関せずの体。

皓ちゃん、と呼んでみると、しゃがんだ腰の辺りから全部ひねってこちらを振り返る。そうか、まだ首だけ振り向く、ということができないのか、と面白く思う。子どもの身体というのは器用ではないのだな。

眉の濃くすうっとしたところや、唇がちょん、と上にまくれてるところは中村に似ている。くっきりとした黒目がちの二重は父親譲りなんだろうか。数年前の新郎の顔を思い出そうとするけれど記憶の底でひどく朧だ。頬はまるで作りたての白玉のようで、なんだかつまんでみたくなる。

猫好き?と聞くと、両手を頬にあてて「ねこちゃん、すき」とつぶやく。そのまま頬をこねこねとつぶしている。唇が蛸のようになる。目が「ぐるっとまわってにゃんこのめ」になる。なぜそうしているのかわからないから面白い。滑稽なくせに全く感情が感じられない表情であるところも、興味深い。

 

「ねえ、どうしてああぐにぐにと顔をつぶしてるんだろね。猫が好き、と、顔ぐにぐにはどこで繋がるのかしら」

「ええ?知らないわよ。言葉以前の衝動が現れんのかしらね。母親になるとそういうの、あまり疑問に思わなくなるね」

 

そう言って中村は珈琲にミルクを入れた。

そうか、母親というのは子どもの行動にいちいち疑問を感じないのか。それはなんだかひどく新鮮な回答だった。

皓ちゃん、りんごジュース飲む?と聞くと「おちゃこがいい」というので煎茶に氷を入れて出す。中村からの土産は水羊羹だった。

 

「今時分、どうして水羊羹なのよ」

「向こうの実家では冬に水羊羹食べるのよ。変でしょう」

 

自分で持ってきたくせにそんな言い草をして、しれっとしている。冬場のアイスクリームみたいなものかね、と小皿に取り分けて並べたら膝の上に、しとん、と猫が乗っかった。猫の目は銀杏のようにぴかぴかだけれど、それを見つめる子どもの目はまるで黒飴のようにぴかぴかしている。