風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

十二月朔日 kingyoku kohaku

「ママ」

「なあに?」

「ママ、だって」

「そりゃそうだよ、ママだもの」

「ねこちゃん、だっこする?」

「抱っこは無理だからいいこいいこしてあげなよ」

 

皓ちゃんはそろそろと私の近くまで寄ってきて、そろそろと小さな手を伸ばして猫の背中に触れた。

子どもの髪の毛からは干したての布団のような、アイロンあてたYシャツのような、そんな匂いがした。これはちょっと参るような、心がほろほろする匂いだ。ぷくぷくと丸い、サワガニみたいな手。

 

「ヤマネさあ」

「うん」

「卒業したあと暫く昆虫好きの男の子と一緒に暮らしてたじゃない。なんだっけ、あの子」

「車戸くんだよ。暮らしたといっても一年ちょっとだけど」

「ヤマネはどうしてクルマドくんと別れたの?」

 

そんなもう十何年も昔の話、今更聞かれても私は途方に暮れてしまう。こうして今、思い出そうとしても車戸くんの輪郭さえ朧なのだ。いったい私たちはどんな会話をしていたんだろう。手を繋いで歩いた道は、あれはどこだったか。たまに作ってくれる揚げ出し豆腐が私の作るそれよりも美味しかったことは覚えている。でも私たちはそれを、どういう話をしながら食べたのだっけ。彼の声は、どういう声だったっけ。遠い記憶はほんとうに、まるで蜃気楼のようだ。

 

「人間の記憶ってまったくもって茫洋としたものなんだね」

「なんの話よ」

 

中村は呆れたように言う。あなたたち、仲の良い兄妹みたいだったのにね、と言って水羊羹をするりと口に運ぶ。中村は美しい唇をしている。

 

「子どもの頃さ、琥珀羹ていうお菓子が好きだった。おばあちゃんは錦玉と呼んでいたけど。でも中に小豆が入っているのが子どもの私にとっては口当たりが最悪で、よく小豆だけ取り出して怒られたな。眺めていてもいいんだ、あれ。本当に琥珀の玉みたいに鼈甲みたいに透き通って。縁側なんかで食べるときらきらと日の光がその中に閉じこもってさ。と、いうような子どもの頃のことは案外くっきりと思い出せるのに、どうして彼のことは蜃気楼みたいになってしまうのかね」

 

私が知るわけないじゃないか、と中村は笑う。笑いながらも眉を少し顰めるようにして、でも、と続ける。

 

「でも、案外私たちは自分が幸せだったときのことは砂が零れるように淡くしか思い出せないような気がする。もっと強烈に、確実に独りだったときのことのほうがはっきりと記憶しているような気がする。誰かと一緒にいるときだとか、幸せな瞬間だとかって、脳みその記録係よりも感情のほうが活発になっちゃっているから」

「そう考えると子どもの頃の私というのは確実に強烈に独りだった、ということか」

 

いや、今もそうか。硝子戸の向こうで山茶花の白が揺れる。

 

身近な子どもに目を移すと、皓ちゃんは今はもう猫から気はそれて、中村が鞄から出したビスケットを齧ったあとは、自分のリュックサックからクレヨンと小さなスケッチブックを取り出して灰色の団子のようなものを書き散らしている。

この子は今一心不乱に灰色のクレヨンで歪な団子の中を塗り潰しているけれど、今この瞬間の一心不乱さをいつまで記憶にとどめていられるんだろう。それともいつだか大人になって、ある瞬間、例えば今日のようなまだらに曇って晴れた空を見上げた瞬間、ふと思い出したりするんだろうか。それはなんだかとても、とても気の遠くなる感覚ではある。

ふくふくとした頬っぺたがこちらを向いて、「ねこちゃん、なんてなまえ?」と、尋ねる。

 

「ひつじだよ」

「ひつじさんなの?ねこちゃんではなくて?」

「名前がひつじなんだよ」

 

この猫は今ではところどころ灰色だけれど、もらってきた時は灰色の部分はごく薄くて、ふわふわとした羊毛のようなくすんだ白だったのだ。

皓ちゃんは、ふうん、と鼻を鳴らしてまた両手で顔を潰す。

 

「そういえば羊羹のようはどうして羊なんだろね」

「さあね。でも羊という漢字には美味しいという意味もあるらしいよ」

「ようかん、て、ひつじさん?」

 

違うよ、餡子だよ、と答える中村の手がつるつると濃いチョコレートの色したくせっ毛を撫でる。この髪の毛は中村譲りだな、と思う。ゆるく波打つチョコレート色。

 

「子どもってかわいい?」

 

そりゃね、と中村は少し考えるふうに首をかしげて

 

「私はね、皓が生まれて初めて愛しているという状態がどういうものなのかわかった気がする」

と言った。

 

「それはどうも旦那さんにも聞かせてあげたい真実ではあるね」

「だってね、愛している、なんて私にはいつだって歯が浮くような言葉だったけど、皓にたいしては愛って言葉がきっちりと私の心にはまり込んだもの。夫に関してはどうなんだろう。その言葉がパズルのピースみたいにさ、綺麗にはまり込むにはもっと時間がかかるものなんだと思う。いや、時間をかけて然るべきものなんじゃないかなあ。じゃないとなんか、嘘くさいじゃない。愛しているなんてのはそうそう容易く理解できるような行為じゃないよ」

 

まあ、そうじゃない人もいるんだろうけどさ、と珈琲を飲む中村は素直な感じでとても良かった。時間かけても良いと思える人と一緒にいられるというのは羨ましいね、と言うと、あんた馬鹿にしてんの、と笑った。

 

 

お昼に蕎麦をとって食べて、おやつの時間前に中村と皓ちゃんは帰っていった。

急な訪いの理由を中村は語らず、気づけば私も尋ねなかった。私と中村はそれで正しいのだと思う。がらん、とした部屋の中で、柱時計が五時を打つ。人がいた気配というのは、まるで花の香のように色濃く残るのだなと思った。

 

台所で南瓜を煮ていると、呼び鈴の音がしたので出たらば唐島さんの奥さんだった。またおすそ分け、と言って袋いっぱいのカリフラワーを見せてくれる。北海道の友人が送ってくれたのよ、という唐島さんがふと気がついたというふうに「今日はお客さん?」と聞くので吃驚する。可愛らしいお客さんだったのね、と笑う唐島さんの指さす先に、落ちているのは青いミニカー。

 

薄暗い廊下の隅で、青いミニカーはまるで夜の信号のように光っている。袋を抱えたまま、行儀悪く足先で走らせるとしゃああと軽い音がする。猫がぴん、と耳を立たせて襖のかげから顔を覗かせた。その俊敏さは即ち、野生。偉いぞ、と頭を撫でる。

 

十二月朔日が終わる。