カザリちゃん「理科室とすもも」
カザリちゃんは理科室が好きだ。
班毎にわかれるあの黒くてつるりと硬い大きなテーブル。かたかたとすわり心地の悪い、背もたれのない小さな木の椅子。テーブルにいちいち水道がついてるのも素敵。ビーカーや試験管。上皿天秤はひどく脆そうな動き方をする。今にもからからと壊れて落ちそうな。薄い皿の上にピンセットで分銅を載せる、あの、ぴん、と張り詰めた感覚。アルコールランプの美しい透明な炎。
理科室は別空間だ、とカザリちゃんは思う。
フラスコ、だとか、シャーレ、ろうと、メスシリンダー。名前が美しいものが多いところも素敵。
図工室もいいけれど、理科室はより空気が透明だ。図工室の空気はどことなく暖色なのだ。理科室のそれは冬の朝の、ほんとうに夜から朝に切り替わる隙間、あの清冽な空気に似ている。
「理科室ってどうしてどことも違う匂いがするのかな」
学校近くの駄菓子屋で、カザリちゃんに聞かれた杏子ちゃんは丁度すもも漬けのあの赤い汁を細いストローで飲み干したとこだった。
杏子ちゃんの鼻の奥を、つーん、と甘酸っぱいあの赤い香りが通り抜ける。
「うっあー、おいしっ。すもも漬のつゆってあれだよね、なんか丸くないね。とがってる」
カザリちゃんも頷く。
「うん。あれはセロファンの赤だね。お菓子、とか、くだもの、からレンソウするハンチュウをこえているよ」
(ハンチュウ、ってなんかガムみたいな感じ)
と、杏子ちゃんは思った。カザリちゃんは時々難しい言葉を使うのだ。レンソウは連想ゲームのレンソウ、か。教室の女の子たちはこういうしゃべりかたをしない。それが杏子ちゃんにはどきどきと誇らしく、そうして少しばかり後ろめたい。
というのは、杏子ちゃんは、
「理科室ってトウメイな匂いがするから好き」
と、カザリちゃんは言った。
水の底みたい、そのくせ空気なんてないどこか違う星みたいな匂い。あれって薬品のせいかな。それとも水道がたくさんあるからなのかなあ。カエルの解剖の匂いなのかな。
「理科室だけいつも世界からはずれているみたい」
カザリちゃんはすもも漬で赤く染まった唇を引き結ぶ。
そう、あそこはどこか世界から切り離された匂いがする。
杏子ちゃんは、べえ、と小さいべろを出して「ねえ、赤い?まっかっか?」と聞いた。すもも漬を食べたらべろが赤く染まるというのはいつだってどこでだって変わらない出来事であるのに、子どもたちは確認せずにはいられない。
うん、まっかっか、と嬉しそうに笑うカザリちゃんは、杏子ちゃんとも教室の女の子とも、誰とも変わっては見えない。
変わっては見えないのに。私はほんとうにはカザリのことはよくわからなかったな。
と、三十六歳になった杏子ちゃんは思った。
カザリの言葉はとても不思議めいて聞こえて、そう、大げさに云うならば神秘めいていて。クラスメイトはよく私に聞いてきた。
「唐沢さんと仲いいよね」「カザリってどんな子?」「あの子変わってるよね」
私は自分がそこに行きたかったんだ。その場所に。カザリのいる場所に。
私が後ろめたかったのは、ほんとうには私はカザリの言葉を認めていなかったからだ。私は理解者のふりをしていただけ。
あの時も。理科室のはなし。「世界から外れているみたい」なんて。感心して、羨ましくて、そうしてそのくせ、本当にそんなこと思っているのかなあ、なんて疑って。
だからいつも私はカザリを好きだったけれど、同時に妬ましかった。
カザリが見ている美しい世界を目の前に、自分にはそれが理解できなかったから。あの子はいつも私には見えない美しい世界をつかまえていた。
くすくす、と笑う。それにしても、
あれが私の最大限だったなあ。あの毒々しいすももの露。丸くない、尖っている味。
あの表現が、私の最大限だった、と思い返して杏子ちゃんは、くすくすと笑いが止まらない。
私は普通でいいんだ、と、すとんと納得できたのは転校してからだった。
とても影響を受けていたんだなあ、私。だって、そりゃあ、思春期目前だものねえ。
でも、思い出になると全て薄まるのだ。あの頃、神々しくさえ見えたカザリも、記憶の中から取り出すと少しばかり風変わりな美しい少女に過ぎない。
「ママ」
と、柔らかく甘い、舌足らずの声がする。
両手を広げながら、いまの私ならあのときのカザリを手放しで愛せるのにね、と、杏子ちゃんは思う。