音の匣
砕けてばらばらと散らばる硝子に反射して、月は何百にも割れた。
青白い街灯に背中を押されるようにして、歩く。砕け散った硝子を靴の先で蹴ると、月はちりぢりと夜の闇に消えた。
明るい夜で、風は生温かく春の小川のようにうなじをくすぐる。どこからか電子ピアノの音が聞こえてくる。
「こんばんは」
深く柔らかい声の主は、3mは身の丈のありそうな熊だった。礼儀正しい熊だ。左手に白と緑のだんだら縞の傘を差している。
「こんばんは」
と、俺も頭を下げた。ぽろぽろ、と、零れ落ちるような電子ピアノの音は、その熊が首からぶら下げている小さなラヂオから流れている。
銀色の雫が硝子コップに落ちるような、綺麗な音だった。
「美しいな。その音」
俺が言うと熊は嬉しそうに目を細めて、
「そうでしょう?これは土星の輪の音です」
と笑った。土星の輪とは、珍しい。
「月の基地局が流す音は頗る美しいものばかりですよ。先日の新月には彗星の奏でる音が流れました。まるで美しいビーズの網を夜空に掛け渡すようでしたっけ」
そういって熊はうっとりと目を閉じた。目を閉じるとまるで黒い山のようだ。月の光を背にして、ほんとうにまるで黒い影と話しているような気分になる。
シガレットケースをぱちりと開いて、熊の目の前に差し出すと、小さく会釈をして一本つまんだ。燐寸を擦る。しゅっ、と切る様な音と、吸い付けるぱちぱちと、か細い音。
「時に、月の基地局は千年も昔に滅びたのではなかったっけ」
紫煙は丁度、熊と俺の頭の間辺りで銀河系の形に渦巻いている。
熊は小さく瞬きをして
「あなたはご存じない?ラヂオというのは時間軸の波動をひろうものですから、過去も未来もありませんことを」
と首を傾げた。
そんなラヂオは聴いたことがない。だけれどもきっとそういうものなのだろう。
熊の声は段々に低くなりまるで夜そのもののようだ。紫煙はその渦をひろげ、ほんの数十cm先に佇む熊の輪郭すらもおぼろげになってきた。
「目を閉じたあとの暗闇の、一番遥か遠くを見つめてごらん。美しく爆ぜるダイヤモンドの光が見えたらそれが時間軸の波動です」
俺は言われるままに目を閉じて、一番遥か遠くに爆ぜる光を探した。深く深く沈みこむような流動的な闇。深い底に爆ぜるミクロンの稲妻。その稲妻をつかむ。
眼前に広がるのは美しい太古の海だ。まるで空とひとつに溶け合うかのような青の空間。
波の音は背骨を融かすかのように心地よく響く。
男の意識はただひとつの眼となって、無限にある時間軸のひとつに旅している。
紫煙がほどけ、熊の輪郭が夜の底にくっきりと浮かび上がった。首から提げているラヂオは二つに増えている。
電子ピアノのような土星の輪の音。もうひとつはまるでエメラルドが砕けるような美しい波の音。
隣にいた男の姿は影形もない。煙草の吸殻だけが、弱々しく細いけむりを立ち上らせながら転がっている。
「美しい音だと思いませんか」
熊はラヂオをそっと撫ぜながら微笑む。
土星の輪と太古の海と、美しい不協和音を響かせながら、熊は傘を畳み夜の黒に消える。
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