十月朔日 ito
金色の明朝体で、KOHAKU、と硝子に書かれたドアを開けると既に私以外の面々は揃っていて、綺麗にメイクアップされた横顔たちがぼんやりと薄暗い照明に浮き上がって見える。
「ヤマネ、こっち」
と、中村が声をかけるのにぎこちなく手を上げて答えた。
陽子が「ほら、荷物こっち」と鞄を取り上げて備え付けの籠に入れる。絢子がメニューを渡してくれる。
アイリッシュコーヒーを頼んでショールを畳んだら「あんたはまた十月だってのに半袖なんて着て」と女どもは呆れる。でもショールは暖かいから大丈夫だよ、と言ったら(またヤマネは)という顔をされた。
「大体ね、あんた化粧もしてないでしょう」
「マスカラは塗ったけど」
髪もぼさぼさだし、三十過ぎた女がポニーテールってどういうことよ。それにね、靴下じゃなくてストッキング穿きなさいね、ストッキング。とひとしきり説教されたあとはもうそれぞれの家庭の話になっていた。
一人取り残される。
中村のところは子どもが出来るのが遅かったから息子が再来年幼稚園で、陽子の上の娘はもう中学二年生。下の男の子は小学校五年生。上の娘は中学受験をしなかったけれど、下の子はどうしようか迷っているのよやっぱり公立だと色々な点でゆるいのよねという話。絢子のとこは中学一年生の男の子で、公立もいいわようちはのんびりでいいなあ、だそうだ。
小学校五年生や中学二年生が何歳なのかもおぼろげな私はぼんやりと目の前の良く開く唇たちを眺めている。
今も昔もあまり変わらない。良く開く唇たちから出てくる言葉は大概私とは離れたところにあるものたちで、それは恋の話であったり今のように家庭の話であったり。ひとつ違うのは中村の唇からは私にも馴染み深い言葉たちが出てきたのに、昔は、というところか。
その中村は今、保育園のまま仕事を続けるか、私立の幼稚園に入れるか迷っていると言う。なにを迷っているのかわからない私は「保育園と幼稚園てそんなに違うの?」という質問をして、(またヤマネは)という顔をされてしまった。
「あのね、保育園と幼稚園じゃやること全然違うわけよ」と陽子が言う。それに仕事を続けたいならそのあと見てもらうとこも探さなきゃならないし、金銭的にもねえ、うちは上の子の時は保育園のまま小学校に上がらせたけど幼稚園から来た子とだいぶ差がついたもの最初は、と言う。
うんうんと頷きながら絢子が、でも、と口を開く。
「でもそれも一学期過ぎればとんとんになるじゃない?大概。そんなに神経質にならなくても大丈夫よ」
「そうだけど、でもやっぱり親としてはその数ヶ月がもどかしいのよね。だからやっぱり亮太郎の時は幼稚園に入れたもの」
中村は眉間に皺を寄せて二人の話を聞いている。
先月買った歌集の話をしてみたいけれど、中村の眉間の皺がそんな話を聞く余裕はないと語っている。
そのままその店で軽くアルコールとつまみを食べて、20時に店を出た。空はのっぺりと蓋したように紺色の雲が広がる。
「ほらまた転ぶよ」と中村が声をかける。背筋をきりりと伸ばした、キャメルのジャケットの後姿は昔と変わらないように見えるのに、ひどく遠い。陽子と絢子は中学校に通うお互いの娘息子の話をしている。その背中たちはもっともっと遠くに見える。
「中村?」
うーん、と背中で答える。本当に彼女の背中は、私の腕の長さの距離にあるんだろうか。
「あのさあ、こないだ歌集を買ったんだ。割と若い人で。とても良かったんだよ。その中に中村が好きそうな歌があってさ」
「うん」
キャメルの背中が動く。この「うん」は少しばかり近いような気がする。
金木犀が香る。灰色と電飾ばかりの町並みに樹なんてないように見えるのに、どこからかこんなにも濃密に香る。
「青年の日はながくしてただつよくつよくかむためだけのくちびる、って」※
中村が振り返る。どうしてだか私は泣きそうになって繰り返す。
ただつよく、つよくかむためだけのくちびる。ねえ、私、中村はこの歌好きだと思ったんだ。ねえ、中村、そうでしょう?
彼女は瞬きをして、少し首を傾けて。街灯のしんしんと白い光に照らされて青ざめて見えて、学生時代の中村が過ぎる。その一瞬過ぎった残像に向けて、ねえ中村そうでしょう?と心の中で繰り返す。
「…そうだね。いい歌だ。繰り返すところがきりきりと切なくていい」
中村はそう頷いて歩き出す。
つよくかむためだけのくちびるかあ。呟きながら歩く、その背中は近い。昔のように。
近い背中のまま中村は笑う。
「あのね、ヤマネ。私は結婚してもう中村じゃないんだよ。何度も言ってるのに」
と、苦く笑う。
「でも、中村は中村だから他に呼びようがない」
「陽子も絢子も、まり子って呼ぶのにね。でもまあヤマネはヤマネだからな。ヤマネといる時の私は確かに中村のままなのかもしれない」
そう言って中村は私の隣に並んだ。
絢子が地下鉄の入り口で振り返って、
「あ、またヤマネとまり子が内緒話してる!」と大きな声で叫ぶ。
隣で「ほんとだ」と笑う陽子の顔も、まだ指差している絢子の顔も学生時代のそれに戻る。
良く開く唇たちを、私は愛してもいた、と気づく。
「あ」
中村は私のポニーテールに触れて声を上げる。
「ねえねえ!ヤマネってばパールの髪飾りなんてつけてる!ヤマネも大人になったよー」
と、二人に手を振った。
「輪ゴムのみからしたら頗る進化じゃん」と陽子が笑う。
「ヤマネも大人になったねえ」と絢子も笑った。
家に着いたのは22時を少しばかり過ぎた頃だった。
踵の高い靴は久しぶりだったので足の裏がじんじんと熱を持ったように鈍く傷む。猫がにゃあと飛び出して来て、耳の裏を擦り付ける。ショールをふわりとかけたら不服そうに鼻を鳴らした。
猫が牛乳を飲むその、ちゃっちゃっ、というような、たんたん、というような音を聞きながら、湯を沸かして濃い目に番茶を淹れた。
それぞれの人生、それぞれの道、なんて陳腐な言葉さえ浮かぶ。それでも一度繋がりを持った以上、どれだけ離れた環境にいても、ふいに繋がる言葉というのは、気持ちというのはあるのだと思った。
一度繋がった糸はいつでも私のそばにあったのだ。手繰り寄せなかったのは自分なのかもしれない。
あの人に繋がる糸もまだ残っているだろうか。
十月朔日が終わる。
※『鈴を産むひばり』光森裕樹