風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

十月朔日 tegami

日暮春樹様

朝から栗の鬼皮をむいています。1kg半もあるので明け方から熱湯に浸したとはいえ手が負けそう。

どうして渋皮煮なんて面倒なものを作ろうと思ったのか。いつもはそういう手間を嫌うのに。秋だからかもしれません。裸足の足元はすうすうと冷たい水の中にいるようにひやひやとしていて。

秋になり冬が近づくにつれて、自分自身を毛布で柔らかく包むような、そういう丁寧なものことをしたくなります。これは私が年取ったということなのでしょうか。

しわしわとした指先を休めて番茶を飲みました。かたかたと硝子戸の揺れる音。今日は風が強いのです。

栗で思い出すのは栗かん。ほら、あの白餡に栗がごろごろと入った、練りきりのような柔らかい羊羹。冬休みに遊びに行くと、その菓子がよく卓に登場しましたね。みんな、日本茶が合うというのに、私と春樹さんだけは珈琲だと言い張ったのを、飴色の栗の肌を見つめながら思い出しました。

あの柔らかい噛み心地。ほろほろとした和栗の甘さ。泣きたいほどに懐かしいのはその味ではなくて、あの場所なのかもしれません。

あなたは気づいていたのかどうか。

あれは私が九つの夏でした。日本海の海は荒くて、まるでのた打ち回る生き物の背中のようで、私はいつも一人で泳ぐことができなかった。将ちゃんはずんずん一人で泳いでいってしまうし、あの当時もう中学三年生だった桃ちゃんは家族と一緒に海水浴に来ることもなくなって。母さんたちはパラソルの下から出てきもしない。

ぽつんと一人砂浜に取り残された私をいつもあなたはゴムボートに乗せて、或いは背中に乗せて、遠くまで泳いでくれた。砂浜は見る見る小さくなって、空の下には海と私とあなたしかいないようで。それは怖くてどこか甘い。

いつもそうだった。一番年下の私はいつも置いてけぼりで。

冬休みのスキー場。一人で滑れるようになるまで、あなたは足の間に私をすっぽりと包んで白銀を滑り降りた。

いつでも私の目の前にあるのはあなたの乾いて温かい手のひら

手紙を書く夢を見た。便箋二枚ほどだったろうか。途中で切れていたけれど、いやにくっきりと自分の字を追えた。連なる言葉を追いながら酷く混乱したのを布団の上で苦く思い返す。

そこに書かれていたようなことを、私は死ぬまで口に出すことはないだろうと知っているのに。

冷蔵庫から小瓶に分けた栗の渋皮煮を三つ小皿に取り出して、珈琲を沸かす。食欲がない。夢のせいだとは思いたくないが、ちらちらとばらばらと便箋に載った文字は頭の中を舞う。猫がにゃあ、と鳴いて朝ご飯を催促した。

一昨日作った渋皮煮は珍しく手間隙かけた分ほくりと美味しく出来ていて、確かに昨日出来上がりを口にした時には、あの懐かしい栗かんを思い出していた。

縁側に腰掛けて煙草を吸う。灰皿を台所に置いたままなのを思い出して、庭にある欠けた織部の皿を使おうとサンダルをつっかけたら裏のゴムがぼこりと取れた。今回は脛を打つことはなかったが、このサンダルももう寿命のようだ。ぞろぞろひょこひょこと歩いて皿を掴む。空はまるで灰色の絵の具に牛乳を混ぜたような滑らかな曇り空だ。

宗旦木槿の白、紫式部のつややかな紫、水引草の朱。全部滑らかな灰色に溶けてしまいそうに淡い。

煙草のけむりがそろそろと鼻を撫でる。

灰を落とす先にトランプの絵柄が浮かんだ。

クラブのキングは情けない。スペードのキングは嫉妬深くて、ハートのキングは楽天家。ダイヤのキングは吝嗇。クラブのクイーンは不感症。スペードのクイーンは魔女で、ハートのクイーンは浮気性。ダイヤのクイーンは高潔気取り。クラブのジャックは優等生。スペードのジャックは殺し屋でハートのジャックは優柔不断。ダイヤのジャックは幽霊。

春樹さんの机の抽斗にはスウェーデン製のトランプが入っていて、その煙草くさいカードを並べては物語を作って遊んでいた。スモーキーな色合いの美しい絵柄たちは私の頭の中でひらひらと動き回ったものだ。その煙草の香りと一緒に。

あの頃に戻れるのならば戻りたいだろうか。崩れそうに長くなった灰を眺めながら考える。危うい均衡を保った灰の殻は埋もる橙を透かしてミニチュアサイズの灯篭のようだ。

戻る、よりも、進みたくて進めずにもがいていたのが自分じゃないか、と結論付けて物思いを終らせる。

立ち上がると膝の骨がぱきりと小さく鳴った。

柱時計は午後一時を回ったところ。バタ醤油で作った焼きおにぎりの小さいのを二つと牛乳で昼ご飯にして、ばたばたと食器を片付ける。今日は三時に短大の友人たちと渋谷で会う。四人全員が集まるのは五、六年ぶりになる。

少しばかり楽しみで、少しばかり気が重い。いつもそう。家というテリトリーから外界へ出て行くのが億劫なのだ。

歯を磨いて、日焼け止めを塗る。くしゃくしゃと寝ぐせの取れない髪の毛を無造作にひとつにまとめて、マスカラだけ塗った。十年以上も前に買ったギャルソンの淡いベージュのワンピースにレジメンタル・タータンのショールを羽織る。『黒い番人』という名のこのチェックが子どもの頃から好きだった。

タイツを穿くのが嫌なのでパールホワイトの靴下にパンプスを履いて外に出る。

金木犀の香りが漂うこの季節の空気は清々しく美味しい。口をあけて息を吸い込むと冷たくて甘い空気が口中に広がり、肺を満たす。素敵な季節だ、と心が躍る。