九月朔日 nanntennnomi
あっという間に時間が経ち、気がつけば夕暮れ。日の光に夏は残っているとはいっても、秋はじわじわと侵食してきていて、うっかりするとすぐに夕闇が落ちてくる。精算をすませて外に出ると、落ち葉のような匂いがした。
傾く日の光のなか、すとん、と気持ちが寂しくなる。
誰もいない校庭。カーテンを下ろした文房具店。影に溶け込みそうな駄菓子屋の店先。そのまま秋の夕暮れに溶けてしまいそうで、足早に家を目指す。空はじわじわと茜色から薄紫へと変わる。
玄関を開けたら猫が上がり框にきちんと座っていて、まるでそれが三つ指突いて主人を待つ奥方のようで、口元が弛んだ。
ああ、もう、おなかがすく時間だったねえ、ごめんごめん。
柱時計は午後六時半と少し過ぎていて、急いで鮎飯と別の皿にはキャットフードをほぐして入れて、床に置いたら一心不乱にしゃぐしゃぐと食べていた。猫の横顔はまるで口が裂けるようで、そのくせだらしく口の周りを汚すことがないことに感嘆して、暫く眺めていた。
茄子と獅子唐を胡麻油で素揚げして、塩と七味でお菜にする。あとは今朝の残りの鮎飯と味噌汁。冷蔵庫から麦酒を出して、人間様も夕飯にする。
TVのクイズ番組を眺めながら、箸を動かしていると、いつか昔に、ほんの一年ばかり一緒に暮らした男の子のことを思い出した。あの子はどうしてだかクイズ番組が好きだったっけ。私が先に答えてしまうと、まるで子どものように苛々と怒っていた。そうして私も声に出さなければいいのに、そんなことすっかり忘れて、また「ニュートン」だの「5639」だの、うっかり声に出して答えてしまうのだった。
そんなあれこれを鮎飯をかきこみながら思い出して、ぽわりと温かい気分になった。
なあんだ、私にもそういう思い出があるじゃないか。辰巳芸者には到底及ばないようなままごとじみた思い出だけれど。それでも私も、恋をした。
不思議なことに、私は唐島の奥さんにどこか引け目を感じていたようだ。手に汗握る駆け落ち者の記憶を持つ老女に引け目を感じている三十過ぎの独身女性なんて、まるで笑止千万だ。
一体、何が私を戸惑わせていたのか。ふわり、と笑った目元に、一瞬でも過ぎった花のような色香だろうか。
明日から二泊三日の出張なので、着替えを用意して、風呂に入って眠る。
「一度だけ ほんとうの恋がありまして 南天の実がしっております」
という、方代の句が浮かんだ。
そう、一度だけほんとうの恋があったはずだった。
それはあのクイズ好きな男の子ではなかったけれど。
九月朔日が終わる。