風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

九月朔日 tatsumigeisya

六時丁度にぱちりと目が覚めた。何かいい夢を見ていたような気がするのだけれど、炭酸の泡のように淡い手触りだけ残して、なにも覚えていない。

猫はもう先に目覚めて階下に降り、座布団の上で毛づくろいをしていた。にに、と鳴いて耳の裏を私の踝にこすりつける。欠けた伊万里の皿に、昨日塩焼きにした鮎を半分ほぐして乗せると、一心に食べだした。

残りの鮎は、今朝はご飯と炊いて鮎飯にする。そのつもりで昨日頂いた鮎を全て塩焼きにしておいたのだ。炊飯器から、香ばしい香りがする。

鮎は四本、唐島さんから頂いた。和歌山の親戚からの贈り物らしく、二人では食べきれないからと半分届けてくれた。鮎はほろほろと柔らかく苦く、美味しかった。

少しばかりぶかぶかに膨らんだ茗荷を大葉と刻んで味噌汁の実にする。秋の茗荷は艶々と色も良く、太って美味しい。そう思って余分に買うと、そういうときに限って外で食べることが多かったり、他のものが食べたくなったりで、今日のようにぶかぶかと膨らませてしまう。好い加減、というのはいつまでたっても難しい。

ぴいぴい、と炊飯器が鳴く。鮎は崩さずに茶碗によそう。

薄切りにしたスパムとエリンギを塩胡椒でいためたものをおかずにして、朝ご飯にした。

食後に番茶を飲みながら、隣人である唐島夫妻のことを考える。

私の両親よりも年は少しばかり上だろうか。どちらも同じようにふっくらと肉付きのよい身体つきで、奥さんはいつも木綿の着物を着ている。ご主人の方はいつ見ても白いシャツにチノパンという格好で、縁側で、煙草を吸ったり、庭を掃いたりしている。たまに、ぽつんぽつんと弾けるような三味線の音が聞こえてくることもある。二人の間に流れる、懐古的な雰囲気が私は好きだ。

まるで骨董屋を覗いているような気持ちになる唐島家だけれど、あるとき奥さんから「わたしたちは駆け落ち者なのよ」と悪戯っぽく耳打ちされたことがある。

辰巳芸者でね、贔屓の旦那もついていたのだけれど、今の主人に出会ってしまって。あちらは学生でしたからお客さんてのでもなくて、あの人、美術学校で絵を教えてたんですよ。それが店の女将の親戚筋で。あるときモデルを頼まれたことがありましてねえ。今はこんなに太っちゃったけどね、昔はこれでも店の看板芸者だったんですよ。それで何回か顔あわせるうちに、ねえ。手に手を取って、なんて物語みたいんじゃあなくってね。喧嘩別れするみたいに店を飛び出ただけなんですけどねえ。

「恩を仇で返すとはこのことだ、なんて常套句。まあ、罵られましたっけねえ」

と、ふわりと笑うその口元や目じりの皺には、そんな修羅場をかいくぐったという影も形も残っていなくて、奥さんの不思議とビー玉のような薄い灰色の眸をまじまじと覗き込んでしまったものだ。

庭先の女郎花と花魁草が風に揺れる。

洗濯を済ませ、昼食に軽く一膳、鮎飯を食べて、外に出た。

九月に入ったとはいえ、まだまだ夏の残る空の青さだ。雲の形と、流れる風の冷たさだけが秋を感じさせる。

和菓子のような秋田犬が他家の玄関先に寝そべっていて、ああいう犬に「さくら」だの「ぼたん」だのと花の名前をつけてしまう気持ちもわからないでもない、と思った。まるで風情のある茶菓のようだもの。犬はちろりと目を開けて、また鼻先を向こうに向けて眠ってしまった。

紺色の蜻蛉が横顔を掠めて飛んでいく。じりじりとまだしつこく熱気を落としていても、やはりもう、秋だ。

煙草屋の角にある地蔵尊はカラフルな前垂れをかけている。プラスチックの風車がどこか陰気でどきりとした。赤いランドセルを背負った女の子がかたかたと鞄の音立てて走る。最近は水色やらピンクやら、まるで洋菓子のように甘い色のものが多いので、オーソドックスなその赤色がなんだかほほえましい。

その角を曲がって小学校の裏を通ると、いつもの喫茶店がある。古いマンションの一階にあるその喫茶店の重たい扉を開けると、からころ、と竹の風鈴が音をたてた。

窓際の席に座って、外を眺める。左手に邸宅、と呼ぶにふさわしい、お屋敷がある。その高い石塀から竹林がわさわさと伸びている。右手に小学校の校庭。うっそりとした岩石園と、卒業生からの贈り物らしい、古びたトーテムポール。誰もいない校庭の、恐竜の化石のようにも見える大きなアスレチック。遠くに見える朝礼台は、ぽつねん、と日の光の下、置かれている。

ふわり、と琥珀色がほどけるような珈琲の香りがして、ことり、とマグカップが置かれた。薄手の美しいカップよりも、マグカップの分厚い口当たりが好きだ。ジェイドグリーンのアンティークのマグは唇に優しくあたる。シナモンスティックをくるりとまわして、本を開いた。

本に目を落とす瞬間、カウンター越しに店主の白い頤が視界の一部を刺した。