風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

八月朔日 hozumi 午後

レストランを出て旅館に戻る道の途中、遠雷が聞こえる。海と山の間に渦巻くような黒々とした分厚い雲が垂れ込め、どろどろどろどろ、と今にも、どかん、と落ちてきそうな危うげな唸り声が聞こえる。

岬の辺りで針金のような白い閃光が走った。

どろろろろん、がらがらがらがらがらん、と大音声が落ちてきて、ばらばらばら、と大粒の雨が降り出した。アスファルトが黒々と染まりだす。信号待ちの車のワイパーがいっせいにぎしぎしと振り切りだす。メトロノームのようだ、と思った。空は煤を撒いたような黒に覆われる。

頭から爪先までずぶ濡れになって、旅館の門をくぐった。印半纏の初老の男性が「えらい雨でしたなあ」とタオルを持って走ってくる。

「驟り雨ですから、そう長いこと降らんでしょうが」

ロビーの柱時計は午後三時を指していた。

部屋に戻り、窓を開けたら潮の香りと雨の埃くさい匂いが流れ込んできた。部屋はまるで透明な灰色に満ちるように、水の気配が満々と立ち込める。欄干にもたれて海を眺める。海に落ちる雨粒はあたり。アスファルトに落ちる雨粒ははずれ。そんな気持ちがする。

あの人と訪れた時も、雨の海だった。

故郷のK町の外れにあるその砂浜は、地元の人間しか訪れないような小さな浜だ。設備も何もないけれど、それだけに人も少なく汚されることなく美しい砂浜だった。荒い波は砕ける碧の硝子のようで、どこまで泳いでも濁らず、底が見渡せる。

その日の海は、まるで灰色のセロファンを通して見るようだった。雨は永遠に降り続くかのように一定の速度で落ちてきて、雲はまるで分厚い絨毯のように空を炭色に覆っていた。

「あの浮き玉のような透明な海を見せたかったのに」

あんまり私が悔しそうに言うので、あの人は少しばかり笑ったようだった。

透明のビニール傘を差す私たちの後ろ姿は、灰色の海を背景にまるではぐれた海月のように見える。

「俺は雨の降る海が好きだよ」

と、あの日、あの人は言ったのだった。

海に吸い込まれる雨の糸は、とても美しいじゃないか、と。

欄干に乗せた腕には霜のように雨粒が散らばり、拭うとひと雫となって落ち、畳に消えた。

雨はもう小降りになり、海の向こうから淡い蜂蜜のような光が覗いている。

子どもだった私はあの人に、晴れて澄み切った碧色のあの海を見せたかった。

あの人の腕につかまらなくても、もう一人で泳げるようになった自分を見せたかった。

いや本当は、いつかの昔のように、あの人の腕に、肩につかまって、怖いくらい沖の遠くまで連れて行って欲しかった。

どれもこれも本当で、どれもこれも、嘘なのだ。

一陣の風に、軒の風鈴が狂ったように鳴り出す。

結局、現場には行かずに、そのまま早めの風呂に入り、夕食を頂いた。

焼き海栗とじゅんさいの汁物が美味しかった。下駄を借りて、散歩に出る。雨上がりの埃くさい匂いと、潮の香りが入り混じり、またいらぬ記憶がよみがえりそうになる。

から、ころ、と、足に合わない下駄の音はどこか悲しい。真白いヘッドライトが私の胸元を切り裂くようにしてすれ違う。

人気のない砂浜を、下駄の歯でぎしぎしと軋ませながら、ざくざく歩いた。

雨に洗われまるで黒硝子のような空に月が昇る。昼間の海よりも圧倒的な波の音だ。頭から爪先まで、大きな柔らかい手で殴られるような、衝撃に近い音の波。黒々と波は重たげに、身を捩るように寄せては返し、寄せては返し。ずうっと見つめていると、自分の足元からぐらりぐらりと揺らぐ心地がする。

月は瑞々しい皿のように光る。その表面を撫でるように、淡く透明な煤色の雲が流れた。

ざざざん、ざざざざん、と、波の音は何かを思い出させるかのように、記憶の糸を手繰るようにまた緩めるように、ゆらゆらと耳元を漂う。

耳を覆うと、声が聞こえそうな気がして、だらりと両腕を垂らしたまま目を張り詰めて、阿呆のようにただただ波の音の中に立ち尽くす。

八月朔日が終わる。