風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

一粒の海

ホログラムの海は映像に過ぎないから、どこまでも潜ることが可能だ。波打ち際から浅瀬、段々と深まる海の青。触れることの出来ない海。泳ぐこともできない。海底に座って水面を見上げると記憶と記録に作られた水面が、太陽光がきらきらと無数の銀色の輪のように揺れている水面が、広がる。

美しい「海」という記憶の映像の中を、今日もムラサキは歩いている。記憶と記録の寄せ集めであるこの海に躍動感はないが、張り詰めた美しさがある。完璧な均衡を保つ、寸前のアンバランスの美しさ。実体のない、仮想現実の海に生きる魚の群れが銀色の光の束のように、ムラサキの頬を掠めて過ぎ去った。この魚も記憶の残像に過ぎない。光る珊瑚も、柔らかそうな海鼠も。

この海というのは、ただの記憶の塊。それならば、俺の頭に広がる世界と変わらない。

ならばやはりこれは幻に過ぎない。

俺たちが守ろうとしているものは、創ろうとしているものは、真実この世界に必要なものなのだろうか。

畳まれた世界が再び広げられた時、遺された全ての遺伝子にその記憶は刻まれていた。たゆたうサイダーブルー。荒れ狂う藍色。凪の青。中央天文台はそれらの記憶と記録を繊細にプログラムし、ほぼ完璧なまでに「海」を再生した。

それでも、やはり、死んでいる。

海も幻ならば俺も幻で、それならば世界など畳まれたままでよかったんじゃないかと、思う。

海から上がるとムラサキの眸に空の欠片が落ちてきた。丁度ハンカチの大きさの空はムラサキの眸に弾けてきらきらと飛沫をあげる。目蓋の裏側に深いブルーが広がる。空の欠片はまるで何かを洗い流すように、ムラサキの眸の中で踊る。ムラサキの目から美しい青い涙が零れ落ちる。次から次へと零れ落ちる涙に歪む目の前の海は、まるで生きているように身を捩るようにゆらぎ始めた。

それは映し出された虚像には到底見えず、生命の躍動に満ち溢れた一つの生き物のようだ。

これは、いま、俺だけの海に生まれ変わった。

本当に必要だったのは涙という俺だけの海だった、と、ムラサキは砂浜に立ち尽くす。

end