風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

六月朔日 urihari

じりりりりり、と目覚まし時計が鳴る。

こんな音は聴いたことがない、と寝惚ける頭で考えている。ああ、そういえば先週時計を替えたのだった。新しい耳慣れない耳障りな、音。

猫が騒音に抗議するように、にぃん、と不満げに鳴いて布団から飛び出た。テーブルの上でけたたましく律儀に鳴り続ける時計を左手で掴み、黒いボタンを押下した。じりぃ…と余韻を残して音は止まる。私も眠気の余韻を楽しむように布団の中で体を丸めてみる。

5時5分。カーテンを開けたら空は水溜りのような灰色だ。波紋のように薄い雲の渦が流れる。それでも隙間から覗く青は、晴れを予感させるのだけれど。

黒星病に罹った梅の樹の、今日は薬剤の塗布作業をする。

だから冬に剪定をしましょうと提案をしていたのに、と、舌打ちしながら着替える。薬剤散布だけで防げないことは、多くあるのだ。それでも発見が早かったからまだ良かった。

フライパンを温めて、卵を三つ落とす。田舎から送られてきたいりこの出汁を二匙入れて醤油をひと垂らし、菜箸で手早くかき回す。とろり、と固まってきたら四隅から畳んで三角に折る。

変な作り方だな、出し巻き玉子とも違う。

と、笑った人がいた。

三角の厚揚げみたいな玉子焼きだ、と笑った。

ぼんやりとその口元を思い出していたらば手元がおろそかになって、皿に移すときに形が崩れてしまった。グリルから鯵の開きを取り出して、昨日炊いたご飯とインスタントの味噌汁で朝ご飯になる。

猫に鯵の身をほぐしてやる。必死で食うさまはまるで口裂け女みたいだ。食べながら上目遣いで見上げるその銀杏色の眸の、平板な光りかた。ああいう無感情な、それなのにどこか濃密な色というのは、猫特有のものではなかろうか。犬はああはいかない。人と同じで表情が宿ってしまう。しかし私は犬の持つ、あの項垂れたような哀愁、或いは諦観といった風なもの、好きだけれど。

柱時計は6時を過ぎたところで、残りのご飯で梅干と高菜のおにぎりを作り、玉子焼きの残りと一緒に弁当箱に詰めた。

件の梅の樹のある場所までは車で二十分くらい。縁側に出てみれば空は六割がた晴れてきていて、これなら降る心配もないだろうと考え、自転車にした。

梅雨はまだのようだけれど、風の底にはどこか冷たい水のような流れがある。まだ色の浅い紫陽花が隣家の垣から零れ出ている。不意に落ちてくる雲の隙間からの陽射しに、ハンドルが鈍く光る

樹齢三十年を超えるという梅の木肌は黒く滑らかで、ごつりごつりと逞しく、刷毛で薬を塗ると墨を溶いたような鮮やかな光り方をする。それは美しく清らかで、このなかには神様が棲んでいる、としみじみと思った。自分が刷毛で枝や幹を撫でているのではなく、大きな柔らかい手のひらで自分自身が撫でられているような気持ちになる。

隣で同じ作業をしている花田君に、まるでこの梅の樹は神様の体みたいだねえ、と言ったら、神妙な顔で頷いた。彼も同じことを思っていたのかもしれないし、こいつはまた何を変なことを言い出すのだと呆れていたのかもしれない。他人の頭の中は覗けない。そうして表情というのはこれまたまったく、あてにはならないのだ。

脚立に立って散布機を使っている水島さんは何か深い考え事をしているような横顔だ。昼の弁当のことでも考えているのかもしれない。

昼休憩に開いた弁当の中で一番質素で情けなかったのが、三人中唯一女である私の弁当で、年明けに孫が生まれたばかりの水島さんに、もう少し色をつけろよ、と呆れられた。

おまえの弁当は彼女が作ったのか、と聞かれて、花田君は伏目がちに「いやこれは僕が自分で」と答えていた。

焼き鱈子に、挽肉の入った韮玉子、鶏肉と蕗の煮たもの。これなに、と聞いたら、蕗の葉の佃煮です、食べますか?と弁当箱を差し出す。

一口もらったら爽やかな苦味のある香りが鼻に抜けた。他人の頭の中というのは覗くことはできないし、見た目というのもこれまたまったく、あてにはならないものだと首を振りながら、花田君の無骨すぎるような顎の線を見るともなく見る。

帰り道、自転車荷台に載せてやるから乗っていけ、という水島さんにお礼と断りを言って、じゃあまた明日、と帰路につく。明日は今日の報告書を作らなければならない。

二の腕が熱を持ったようにだるい。筋肉痛で一日机の前というのもいやだなあ、とため息が出る。夕方の空はもう澄み切って晴れていた。鳥の羽の内側のような雲が広々となびいている。

隣家の垣から零れる白。夕暮れ時の紫陽花の方が朝よりも重たげに見えるのはどうしてだろう。

家に着いたのは丁度7時半を過ぎた頃だった。すぐに風呂を沸かす。猫がにぃあああんにぃぃあああん、と足元にまとわりつく。皿の上のかりかりはもう空っぽで、水もほんの底に薄くしか残っていなかった。缶詰を開ける間も闘牛のように頭をこすりつけてくるので後ろに倒れそうになる。

猫ははらぺこのようだけれど、人間の方は全く食欲がない。猫の旺盛な食欲を眺めながら缶ビールを開け、風呂に湯の溜まるのを待っている。

「こんな処に、お休みになる貴僧は、全く大胆な方に相違ない。ここは評判のよくない――はなはだよくない処です。「君子危うきに近よらず」と申します。実際こんな処でお休みになる事ははなはだ危険です。私の家はひどいあばらやですが、御願です、一緒に来て下さい。喰べるものと云っては、さし上げるようなものはありません。が、とにかく屋根がありますから安心してねられます」

はたりと頁を閉じて、風呂に入る。イタリア土産だという塩の入浴剤を入れて入った。

風呂から上がったらば猫はもう座布団に丸くなって眠っていた。

柱時計が9時を打つ。久しぶりに手紙を書く。四月に書いたきりだから、まるまる一月ぶりになる。これが早いのか遅いのかはよくわからない。よくわからないといえば、実際に投函するのかさえ怪しい。

そんなことは気づいてもいないふりで、私はあなたに手紙を書いている。あなたと出会ってからこれまで、私は気づかないふりをすることがとても上手になった気がする。今日は美しい梅の樹を見ました。病気になってしまった樹だけれど、柔らかく溶けるような黒のかかった茶色で、まるでそれは神様の体のようだった。

ふと気がつくと頬の下に便箋を敷いてうたた寝をしていた。煌煌と白く照る蛍光灯の上、天井の近くには黒々と深い夜が漂っている。柱時計はとうに0時を回っていた。

六月朔日が終わる。