風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

夜の迷路

夜の迷路で煙草をふかす。空には硝子細工の月の上に右手の形した雲がかかる。

夜空は透明な青を何層にも重ねたような不思議に暗く光る海のような深い青で、ひどくやりきれない気分にさせる。

ひと月前、三月ウサギの影をうっかり踏んでしまって、俺は夜の迷路に落ちてしまった。三月ウサギの影を踏んでしまったからには、向こう100年は迷子だぜ、と縞ライオンがにやりと笑った。

黙ってろよオカマ猫、と煙草のけむりを吹き付けたら、縞ライオンはふにゃふにゃとその輪郭を歪ませながら小さく小さくなり、最後には薄っぺらいミントガムになってしまった。猫の形のミントガム。口に放り込んだら爽やかな苦甘い匂いが広がった。

雨が降り出したので壁際に立っていたフラミンゴをばさりと開いたら綺麗な珊瑚色の絹の傘になった。まるで貴婦人の日傘みたいにお上品でいやらしい感じ。くるくると回してみたら月の光を吸い込んでぴかぴかと光る。素敵なランプシェードみたいだ。壁に描かれた落書きのキャンディが「あたしのフラミンゴちゃんになにすんのよ」と馬鹿でかいブルーアイズを裂けんばかりに見開いてぷりぷり怒っている。グンナイ、キャンディ、雨に溶けて消えちまえ。歌うように言ったら雨に色を溶かしながら、全部溶けて茶色の汚い水みたいになるまで甲高い声で俺を罵っていた。たいした女だよ。

一事が万事、こんな感じで、夜の迷路ってのはほんとうに狂ってる。うんざりするけれど出口がみつからないんだから、仕方がない。どこまでも歩くしかない。

いつの間にか草っぱらに出る。夜に広がる緑色の絨毯。どこまでもが草原。そこに渡る風の音はまるで海の音のようだ。草原は世界の果てまでも続くみたいに遥々として、その世界の果てを呼び寄せるみたいに俺は深呼吸をする。肺いっぱいに。

あんまり大きく吸いすぎたもんで、忌々しい鳩みたいに膨らんでしまった。そのまま両手をばたばたと羽ばたかせたら空に浮かぶ。みるみる遠ざかる草原。調子に乗って飛び続けたら月にぶつかっちまった。

「気をつけろよ!割れたらどうすんだよ」

と、月は青ざめた顔を更に青く震わせて怒っていた。

悪かったよ、あんまりあんたが綺麗なもんでぼんやりしちゃったんだよ、と言ったらその青が少しばかり醒めて白く美しく光りだした。

「本当に?ワタシってそんなに綺麗かしら」

月はくるりと振り向いて、ぱちぱちと長い睫を瞬かせながら首をかしげた。馬鹿、騙されんなよ、と俺とぶつかったほうの顔が言う。月ってのはさ、二つの顔が表裏になってんだよ。男の方の顔を無視して俺はべらべらとおべんちゃらを続けた。あんたはまるで海の底で初めて生まれた真珠の光そのものだ、あんたに比べたらバカラのクリスタルなんて塵溜めの屑にも劣るダイヤモンドなんて恥ずかしくって灰になっちまうあんたはまるで世界中の水晶を全部砕いて作ったプリズムから出る最初の光みたいだ。

うっとりとそれに聞きほれる月の瞬きは段々にスピードを増し、放つ光は段々に白く眩しく銀色に、いやもはや金色になり輪郭さえも見えなくなる。まるで白だけの空間に浮かんでいるみたいだ。

「馬鹿め、太陽になっちまいやがった」

男の声が響き渡ると同時に空は燦燦と光さざめく青空になり、俺は驚いて肺に溜めた空気を一気に吐き出してしまった。プシュウ!!

強烈なフリーフォール。ぐるぐると高速回転しながら落ちていく。その途中で三月ウサギの影とすれ違った。畜生。今度あったら瓶詰めにしてやるからな。青空は落ちる速度でその青の濃さを増し、気がつけば夜の紺色になっている。ぐるぐるとどこを見回しても青ばかり。青いインクを垂らした巨大なメスシリンダーの中を落ちているみたいだ。段々に暗さを増す。そのくせ一層透明に近づくようでくらくらする。星の音が鳴り響いて目眩がする。

気がつけば夜の迷路で一人、煙草をふかしていた。空にかかる月は硝子細工の白。

まるで青色のセロファンを幾千枚も重ねあわしたような透明な夜だ。

緑と白のだんだら縞のライオンがにやにやと笑いながら「よう、三月ウサギの影踏んだバカ」と歩み寄ってくる。黙りやがれオカマ猫、と蹴飛ばしたらステッキの形のミントキャンディになった。

肩にかかった星の粉をはらって、俺はまた夜の迷路を歩き出す。