風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

五月朔日 hirugemade

夢うつつの狭間で猫が鳴くのが聞こえる。なあぁおなああぁぉぉと寄せては返すように小さくなり大きくなり、そのうちに男の声が耳打ちするように響いたのだけれど、それはやはり夢だった。

床に落としたタオルケットを拾って布団の上に投げる。窓を開けると雨の匂いが流れ込んできた。空は鈍く瑞々しい曇天で、今にも雨粒が落ちてきそうだ。

干し椎茸の戻し汁に溶き卵で簡単に吸い物を作り、冷蔵庫からセロリの糠漬けを出して昨夜炊いた豆ご飯と一緒に食べた。

かりかりとセロリを噛んでいたら猫が足元にきて甘えた声を出した。綺麗な黒い前足の間に細い笹の葉のような色が見える。半分に千切れかけた蟷螂だった。

全身に鳥肌がふつふつと立ちあがり、髭をぴんぴんと立てて得意げな猫を理不尽に叱りながら納戸に走り、かけてあったプラスチックの蝿叩きでなるべくその方を見ないようにしながら平らな面で手間取りながらも掬い取り、勝手口から外へと放り投げた。ひどく疲れた気分で食卓へ戻ればセロリの緑と豆の緑に食欲をそがれた。仕方なしに珈琲を淹れた。

柱時計が九時を打つ。猫は不服そうに勝手口から出て行った。珈琲を飲みながら、五月に出る蟷螂なんていただろうかとふと思う。あれはもしかして見間違いで、本当にただの葉っぱだったのかもしれない。隣の家の竹林を思う。だとしたら猫には悪いことをしてしまった。

台所の床を磨き、畳を掃いているとぽつりぽつりと雨が降り出す。半紙に墨をぼたりぼたりと落とすように、庭の土に雨の粒が滲む。雪柳はもう花を落としきり、葉ばかりが頷くように揺れている。柿の木の枝葉も軒の椿もまるで影絵のようにモノクロに沈む。灰色の空に走る黒々とした電線。猫やカラスたちはどこで雨宿りをするのだろう。

るるるる、と電話が鳴る。母からだった。そっちも雨かと聞いたら晴れているらしい。受話口から波の音が聴こえるような気がした。米と干物を送っただとか煙草屋の小豆沢のお爺さんがとうとう惚けてしまって若奥さんが大変だとか。干物は鯵らしく、まげにまいからこばやに食べな、と言って電話は切れた。

縁側で柱にもたれて本を読む。薄暗いので電気をつけた。ガラス戸を開け放つと、雨の音は強くなり弱くなり、さやさやと葉の音を交えながら耳元を撫でる。横着に体を伸ばして縁側の下に置いてある灰皿を取った。手の甲に雨粒が弾ける。ふちの欠けた、伊万里の皿。

 

「疲れた心は何を聞くのもいやだ と云ふのです 勿論 どうすればよいのかもわからないのです で兎に角―― 私は三箱も煙草を吸ひました かすかに水の流れる音のするあたりは ライン河のほとりなのか――」

 

雨を見ながら本を読み、煙草を吸うと湿った紙の匂いと湿った煙の匂いがどこか甘い。膝小僧に虫に食われた痕がぽつりと赤く浮かんでいる。一瞬、強く風が吹いた。土の匂いがぶわりと喉の奥まで沁みこむようで思わず息を止めた。

三時の鐘が鳴る。遅めの昼食に豆ご飯で焼きおにぎりを作った。