風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

中庭の夜と春

日当たりの良いベッドの上に座って洗濯物の山に突っ伏すと粉っぽい洗剤の清潔な匂いと、日の光の乾いて温かい匂いが鼻腔から喉の奥にまで広がる。

ベッドの高さから窓は大きく取られていて、そこからこのマンションの中庭が見下ろせる。中庭はコンクリートの壁に囲まれて影が濃い。中央にある小さな池はどろどろと濃い抹茶のような水が澱んでいて、その真ん中には苔がびっしりと生えた丸い岩がある。春先にはその岩の上で蛙がけろけろと鳴いている。ヨルは毎年同じ蛙だと言い張るけれど、ハルはどうも判然としない。わからないものをわからないと素直に言うと、ヨルは憮然とする。

「だって蛙なんてどれもこれもおんなじに見えるじゃないか」と言い訳をしたら、ヨルは愚か者を見るような目で「お前ねえ、どれもこれもおんなじな蛙なんてこの世に存在するわけないじゃない?だいたいさ、誰か知らないやつらに『おい、あそこでぼんやりしてんのはハルかしら』『いやわかんねえな。ヨルもハルもどれもこれもおんなじに見えるからな』なんて言われたら、お前、むかつかない?」と言った。

それとこれとはちょっと話が別、のような気がハルはしたけれど、どこが『別』なのかは判然としないのでだんまりを決め込んだ。ヨルはちょっと五月蝿いのだ。

五月蝿い、という言葉に関してもヨルは五月蝿い。

「なんで五月の蝿だけがウルサイんだよ。蝿なんて年がら年中うるさいじゃねえか」「でも冬の蝿はゆっくり飛ぶような気がするけどな。元気がない」そう言うと、ヨルは鼻で笑って言うのだ。

「ゆっくり飛ぼうが元気がなかろうが、鼻先をうろうろ飛び回ってるだけでそれはもう『うるさい』じゃないか」

ヨルとハルは大分性質が異なるけれど、二人ともこの中庭に面した窓際のベッドの上で、洗濯物の山に突っ伏すことがこの世の中で断然素敵な行為の一つである、ということでは一致した意見をもっている。

「洗剤の匂いってすんすんとして粉っぽくてさらさらして舌のへんがきゅっとする」

「日が当たってるとなんかくすくすした匂いがするのな。焦げたみたいな、くすくすした匂い」

「なんだかサイダーみたいな匂い」

「フライパンみたいな匂いもする」

そうして、二人とも眠たくなる。すう、っと冷たい風が身体を撫でるような感触がして、はっと目を覚ますと、部屋の中はもう夕暮れで満ちている。蜂蜜色の光は灰色がかった菫色に変わり、中庭は既に闇に沈んでいる。空の天辺はまだ明るい藍色で、本当の夜はまだもう少ししないと降りてはこないのだけれど、緑濃くあまりしげく手入れのされていない中庭は一足先に影に沈みこんでしまうのだ。暗い緑と黒、その上に広がる空の菫色と藍色。それを見ると、ハルはいつも『光の帝国』という絵を思い出す。昼の空の下に広がる、夜。

ハルはもう一度洗濯物の山の中に身体を預けてみた。耳の辺りでかさかさと音を立てるのはYシャツだろうか。目を瞑っているのでわからない。でも頬の辺りに冷たく硬いものがあたるので、それはボタンだろう。きっとYシャツだ。すんすんとして粉っぽく、さらさらとしてサイダーのような、それでいてくすくすと焦げてフライパンの熱いところみたいな匂いのする素敵な場所。

あれはまだクリスマス前のことだったなあ、と思い出す。クリスマスが近づくと、リビングは甘いようなキャンドルの香りで満ちる。ヨルもハルも、カレンダーを見なくてもその香りで「ああ、もうすぐクリスマスだ」と気がつく。

「今年は何がもらえるかな。去年のブランケットは素敵だったね」「ああ、あのミントブルーに紫のガーゴイルが編みこまれたやつな」「ヨルがすぐに穴を開けちゃったけど」縁取りが黄色の毛糸ですっごくいかしてたのに、とハルは続けた。

いつもなら「うるせえ」と減らず口のひとつも叩くのに、あの時のヨルは何も言い返さなかったな、とハルは思い返す。

その晩、ヨルはこのベッドの上でハルに告げたのだ。

「俺さ、多分この冬越せないんだ。わかるんだよ、なんとなく」

ヨルはそんなこと全然どうでもないんだけどさ、といった調子でさらりとそう言った。言われたハルの方は全く気が動転してしまって「どうしてだよ!そんなのなんで自分で決めんのさ!」とヨルを責めた。ヨルは静かに言う。

「どうしてだか、わかっちゃうんだよ。お前もきっとわかるよ、そのうち。お父さんは男だから大丈夫だと思うけどさ、お母さんのことよろしくな」

ヨルはそういって窓を開け、中庭にひらりと飛び降りた。月の綺麗な夜で、どろどろの池がまるで翡翠みたいに深く暗く光っていた。

「ヨル!」ハルが叫ぶと、ヨルは一声「グッバイ」と残して中庭の闇に溶けてしまった。

あれはもう二年も前の出来事なんだな、とハルはぼんやりと思う。翌朝、ヨルの姿が見当たらないと気づいたお母さんの動転ぶりといったらなかった。ヨルの名前を呼びながら朝も昼も夜も泣いて、顔なんていつもはつるりと綺麗な卵のような顔立ちなのに、目は赤く腫れて、眠れないせいでむくみきってまるで朧な満月みたいだった。

一ヵ月後に、中庭の池の中に骨が浮かんでいたと近所の子供が面白怖そうに無神経な噂話をしていたけれど、ヨルは月の世界に帰ったんだと信じているハルは、鼻にもひっかけなかった。だいたいそんなにすぐに骨になんかなるものか。

死んだら月に帰る。昔ヨルと一緒に聞いた御伽噺だ。その話を、ハルは今でも頑なに信じている。

くすくす焦げた甘い匂いに、すんすんと粉っぽいしゅわしゅわとした匂い。ハルはその中に埋もれて考える。ヨルが言った「お前もわかるよ、そのうち」の「そのうち」がそろそろやってくるのだ。その気配が体中に満ち満ちている。それはもう零れ落ちそうなほどに。僕はもう、次の春を迎えられない、とハルは思う。

あの時のヨルのように、ハルにもそれが『なんとなく、わかる』のだ。本能なのだろうか。それでも、春のあの沈丁花の香りに満ちた濃い空気が好きだったのにな、もう一度あの香りに身を浸したいのにな、と切なく思う。

それに、と、ハルは小さな胸を痛める。それに、あの日のお母さんを思い出すとどうしてもやりきれない気持ちになる。あんな悲しみをまた、彼女は経験しなければならないなんて。

せめて、ヨルか自分のどちらかが女で、お母さんに小さくてかわいらしい、ヨルにも自分にも似た仔猫を遺してやれればよかったと思う。考えてもせんないことだけれど。

だってあの優しく柔らかい手は、あの日僕たち二人を選んだのだから。

くすくす温かい匂い、すんすんと清潔な匂い。もう少しこの中にいたい、と思う。もう少しだけ。この匂いが消えるまで。そうしたら僕もあの日のヨルのように中庭に降りて、静かに月の光を待つのだ。

ハルは身体の中で刻む時間の音に耳を澄ましながら、月の世界にも中庭はあるだろうか、と思った。あればいいのにな。

中庭でヨルが待っていてくれたらいいのに、とハルは綺麗な匂いの中で目を閉じる。