happy like honeybee「夕焼けシャボン」
クリスマスの匂いって、僕はあると思う。紙包みの放つ甘たるい匂い、キャンドルの淡い蝋の香り、クリスマスケーキの予感が放つ美味しい匂い。そんなものの、なんやかや。今時、商店街にだってジングルベルなんて流れないのだけど。
十二月の聖夜も間近な土曜日の昼下がり、僕とセンダはいつもの喫茶店で珈琲を飲んでいた。窓際の席は午後の陽射しが柔らかくテーブルに、僕たちの膝の上に、落ちてくる。僕の座っている一人がけのソファはポール・ケアホルムのPK31だそうで、センダが座っているのはミース・ファン・デル・ローエのバルセロナチェアプレミアムなのだそうだ。センダはそういうことにいやに詳しい。初めてこの喫茶店を訪れたときのセンダは大変だった。あっちの椅子はなんちゃらかんちゃらで、あれはなんとかのなんとかかんとか、あ!あれはね、って。もう虫を追いかける猫みたいな眼をしてたね。ぎらぎらしちゃって。まあ、そんなわけで、ばらばらと素敵な椅子たちが集まるこの喫茶店に、僕たちもよく集まるわけだ。
「ここのアイリッシュコーヒーは激烈に美味しい」
と、センダが言うので
「ここのシナモンコーヒーは猛烈に美味い」
と返した。猛烈より、激烈のが凄絶な感じ、とセンダは妙な優越感に浸っている。変なやつだな。モウレツヨリゲキレツノガセイゼツ、ってなんか韻踏んでない?と続ける。変なやつだ。
アイリッシュコーヒーを飲みながら煙草を吸うセンダはサーカス団の子供みたいだ。サーカス団の子供なんて、見たことないけど。きっとこんな風に大人びて、それでもきちんと子供で、どこか孤独な感じがするのだろうと思う。実際センダは大人なんだけどさ。
「もっと素敵なのは、ここが禁煙じゃないってこと」
煙草のけむりをぶわっとふきだしながら言う。僕は喫煙者じゃないけれど、センダが煙草を吸うのを見るのは嫌いじゃない。センダ曰く、「男の人って女の子が吸ってるの見ると急に大人ぶって身体に悪いからやめたほうがいい、とか言う人多いのよ」だって。蝉ちゃんはそんなこと言わないからいいよね、だって。まあね、僕は言わない。煙草を吸うセンダって結構いい、と思うから。センダの煙草はダークチェリー色のCHERRYだ。
「ミース・ファン・デル・ローエって、響きが激烈に素敵」
テーブル(イサムノグチよ!だそうだ)にマグカップを置いて僕を見る。今日のセンダは縞々のワンピースにブルーグレーとベージュのもはもはとしたマフラーを巻いている。暗いオレンジ色の靴下に葡萄色のタイツ。黒の革靴はゴブという名前だそうだ。センダがつけた名前だけど。
そのセンダは今日、モウレツにゲキレツという言葉を使いたいらしい。
「なんかさ、こう空を飛んでるみたいな名前だよねえ」
僕は口の中でその響きを転がしてみた。ミース・ファン・デル・ローエ。
ミース、でするり、と空に飛び出して、ファン、デル、と、ふわりふわりと浮かび、ローエ、で空に寝そべる感じ。ほらね
ああ、確かに、なんか気持ちいい名前だな。
「蝉ちゃんは好きな名前とかある?」
「好きな名前かあ」
僕が好きな名前。そうだなあ。
「シーガル。かもめだ。いい名前」
「シーガルの彫刻も好きだ」
あの石膏の人間が佇む、切り取られたみたいな空間。過去みたいな気分になるんだ。僕の過去なんて、高が知れてるが。
僕たちは店を出て少し歩いた。
街は夕暮れ色で、ぽつぽつと光る街灯のオレンジ色が夕焼けに溶けるようで綺麗だと思った。センダが鞄からバブルベアを取り出す。ミニサイズで軽くてこれちょーいいよ、って言ってたやつだ。風がびゅううとふいて無数のシャボンたちが夕焼けの赤に照らされながら空に消えていく。訝しげに僕たちを振り返るおばさんやおじさんやサラリーマンなんて、くそくらえだ。僕はマフラーに顎を埋めて、ギャングみたいに暗く荒んだ目つきをしてみる。まあ、僕が凄んだところで、高が知れている、が。
そんなギャングスタ気取りの僕になんて気づきもせず、
「クリスマスってクリスマスの匂いがする」
なんてことを、センダが言うので嬉しくなった。
やっぱ、センダも気づいた?クリスマスって、クリスマスの匂いするよな。やっぱ、そうだよな。そうなんだよな、うん。