happy like honeybee 「蝉と石と猫」
君って、チカダって言うんだね。蝉みたい。
初めて会った日に、最初に言われた言葉。
チカダハルオと一緒だね、とか言われることはあったけれど、蝉みたい、は初めてだった。
だって蝉ってcicadaだもん、と言う彼女は僕のことをそれ以来「蝉ちゃん」と呼ぶ。シケーダ、とか。
でもさ、僕の名前ってほんとはチカダ、じゃなくてコンダ、って読むんだけど。と、言ったら、へえそうなの、とシャボン玉飛ばしながらつまらなそうに口を尖らせた。
それでも彼女、僕のことを蝉ちゃんと呼ぶ。僕は彼女のことをセンダと呼ぶ。
でも、ほんとはチダ、なんだってさ。まあ、いいさ。
「ねえ、蝉ちゃんさ、今人間以外のものになれるとしたら何になる?」
センダが不意に聞く。
土手で散歩していたら黒白の野良猫が現れて、二人してポケットに入っていたビスケットだのバッグに入っていたカロリーメイトの残りだのを献上してなんとか懐かせようと必死になっていたときのことだ。こいつ猫にでもなりたいのか。
「えー、そうだなー」と考える。黒白猫は人間からのこういった気まぐれな献上物には慣れているらしく、僕の手のひらの上のくすくすになったビスケットの匂いをしきりに嗅いでいる。警戒心なんて全くないんだな、お前。たまに出てくる珊瑚色のざらざらと湿った舌先と、桜色の鼻先の、かさかさとした感触がくすぐったい。
「そうだなあ、鳥かな。飛べたら気持ち良さそうだもん」
僕はしばし鳥の気分になる。世界を俯瞰する気持ちよさは飛行機なんかじゃダイレクトに感じられないもんな。
「鳥かー。…あたしは石かな」
センダは黒白猫の尻尾をひゅいっと撫でて、言う。
「げ、石?またなんで」
「子供がうずうずして蹴りたくなっちゃうような形してる石がいい。そしたらいっぱい蹴っ飛ばしてもらっていろんなとこ行けるし」
「…いろんなとこ行きたいんだったら猫とか鳥のほうが手っ取りばやくない?」
「自分で行き先決めんのめんどくさいもん。行き当たりばったりってのがいいよね。たまに川とかに投げられたりしてさ」
あはは、と笑う。
「それ沈むじゃん。もうどこも行けないじゃん」
と、僕も笑う。
センダの横顔はませた子供みたいな輪郭をしている。ジェルソミーナとおんなじ、という短すぎる髪の毛はこの秋から甘栗みたいな色に染められた。夏は「ハシバミ色だよ」というもっと明るい茶色だった。春は白っぽい金髪だったっけ。じゃあ冬は何色になるんだろうな。
秋の空は流れる水のように透明に青い。綿菓子の作り始めみたいな雲が弱々しく風になびいている。
「でも沈んだら魚もいっぱい見れるしさ、水面越しに見上げる空も綺麗だよ、きっと。落ちてくる雨粒とかさ」
僕は沈んだ石の気持ちになってみる。見上げる水面には落ちてくる雨粒の作る波紋がいくつも生まれては消えていく。青空の日は歪んだ硝子越しに覗くような青だ。
「うーん、確かにそれ、すげーきれいかもしんない」
石になりたい、というセンダの言葉を、僕は納得して飲み込んだ。
「でもさ、蹴ってもらえないくらいでっかい石になっちゃったらヒサンだね。なんかもう、岩、みたいなごついやつ」
「うん、それはあたしもやだな。変なやつによじ登られたりしてさ」
黒白猫はちょびっとビスケットを舐めて、メープル味のカロリーメイトには見向きもせず、今はもうセンダのしゃがむそばで無防備に股の間なんか舐めている。小さな蜻蛉が僕の鼻先ぎりぎりまで飛んできて、嘘みたいに機敏なターンを見せてまた空に戻っていった。