風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

あら、奥さん。お久しぶり。ご旅行だったの?あらご実家に?いやだ、大変ねえ。でもお父様大事無くてよかったじゃない。そうよ、娘の顔見たんだもの、少しは元気出るわよ。それじゃあご主人はお留守番だったの。じゃあご主人のほうが大変だったわね。男の人なんて家のこと何もわからないですもの。ああ、二日も切り上げて。でも早めに戻ってこられてよかったじゃない。もうちょっとゆっくりしたかったなんて、バチあたるわよ。ああ、これ?ええ、あすこのパン屋さんでね、バケットっていうんですってねえ。230円。ちょっと高いかな、なんて私なんかは思っちゃうんだけど。頂き物のハムがあるんですよ。だから挟んで食べようかしらなんて思って。ハムとソーセージ。詰め合わせ。ええ、引き出物のカタログかなんかから息子が勝手に選んだみたい。いやんなっちゃう。私はほんとはコーヒーメーカーが欲しかったのに。そうそう、角っこにある花屋でしょう?先月でしたっけ。なんだか東京に本店があるとかいう。いえ、だめだめ、私はああいう洒落たところで買い物なんてできる柄じゃあないのよ。ほんとうよ。大体ほとけさんのお花買うのにあんなしゃらしゃら気取ったところで買ったってねえ。菊の花自体置いてあるかどうかわかりゃしないもの。あら、ははは、だからバケットはね、ほら、折角普段食べないような大きなハムでしょう?なんだかいつもの食パンで頂くのもねえ、味気ない感じがして。少しばっかり気張ってもたまにはねえ、いいでしょう?こういう堅いパンて、ぎゅっと噛んだ時に塩気があっておいしいのね。それだけで食べてもおかずいらないくらいに味があると思わない?え、なあにそれ?こんふぃちゅうる?知らないわ。奥さん洒落てらっしゃるから。そういうのほんと詳しくていいわねえ。私なんてほら、バケットなんて名前すらさっき知ったばかりだもの。ジャムだってイチゴかせいぜいブルーベリーぐらいのものよ。いえ、ほんとうに、そんなことないのよ。奥さんみたいにひらひらと素敵な格好も何年もしたことないしね。家にいるだけの主婦だしねえ、動きやすければいい、ってものだもの。あら、違うのよ、ほんとうに素敵だなあ、って。いつまでもお若いもの、やっぱり。爪だってまめにお手入れされてるのねえ。お米研ぐのだって嫌になっちゃうでしょう?そんな綺麗な爪していると。あ、そんな、奥さんが家事をしてないって言ってるわけじゃないのよ。そうよ、そんな意味じゃないのよ。いやよ、勘違いしないでね。え、先週?土曜は、ああ、私と子供たちは実家に帰ってたんですよ。金曜の夜から。うちのは土曜も仕事で日曜はゴルフだって言うんでね。え?角っこの花屋さん?いえいえ、そんなお洒落なとこにいくような人じゃあないもの。ほんっと野暮天ですもの。若い頃だって私に花ひとつ贈ったこともないのよ。…なあに?薔薇の花?ピンクの?いいえ、うちにはなかったけど。うちのが買ってたんですか?土曜に。あら、そう。薔薇の花をねえ…ええ、ええ、そうね。そんなに気にすることでもないと思うわ。女の人にもてるような人じゃあないもの。何かの用でもあったんでしょう。ええ、きっとそうだと思うわ。あんな年寄り相手にされるもんですか。馬鹿らしい。

時に奥さん、奥さんのとこのご主人、さっきあすこのパン屋でお見かけしたけれど。一緒にいらした綺麗な娘さん。あの方姪御さんかなにか?ええ、とても仲良さそうにパンを選んでらしたから。娘さんかと思ったけれど、奥さんとこも息子さんでしたものねえ。ご親戚の方でもいらしてるのかしら、なんて思ったんだけど。そうなの、姪御さんはいらっしゃらないの。

ねえ、奥さん。帰る前に一度お電話しておいたほうがよろしいんじゃなくて?