風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

昨日の夢 「麦酒に願いを」

深夜の246を走っている。池尻大橋あたりから夢は始まる。三軒茶屋を通り越し、駒沢通りに入り公園を目指している。自転車で猛スピード。

知りすぎている景色はひどくリアルだ。夢ではなく現実だと思うほどに。東名高速の橋桁だけがむやみやたらに高く、そこだけは非現実的だ。それでも車の排気ガスの匂いや流れるテールランプ、トンネルの入り口から漏れるくすんだ橙の光は怖いくらいにリアル。ここで事故を起したら現実の私も死んでいたんじゃないかと思うくらいに。

隣を走るのはマリイさんだ。

マリイさんも私も脚がぶっ千切れるほどの回転で自転車を漕いでいる。それでも鬼気迫る感じはない。ビデオの早送りのようにハイスピードで風景は後方に流れていくのに、どこか私たちはのんびりとしている。

暗闇の駐輪場に自転車を止める。

「やもりがいる」

マリイさんの声に臆病者の私は怯える。気がつけば駐輪場は自分の指先も見えないほどの闇で、足元ではなにか沢山の生き物たちが蠢く気配がする。ぞぞぞと鳥肌がたつ。マリイさんは暗闇に紛れた黒い影のまま私の手を握る。ごつごつと大きなその手を私は良く覚えている。私たちはまだ付き合っていたんだっけ、と思う。

馬鹿げた大きさのオリオン座が頭上できらめいている。律儀に星図どおりに星の間に線まで引いて。

駒沢公園の中にある麦酒専門店に入る(現実にはそんなものはない)。プラネタリウムのような天蓋、影絵のような木々とその店のシルエット。入り口には橙に光るランプが下がっている。

縦長に狭い店内。リノリウムの床。もつ鍋屋みたいなカウンター。短冊のように垂れ下がるメニューの古びた紙。奥には洗面所(らしい)。コーラの瓶やオレンジジュースの瓶が沢山詰まった硝子の冷蔵庫。カウンター手前のテーブル席に座る。

青いスカーフを頭に巻いた白髪ドレッドのお婆さんが注文を取りに来る。

麦酒専門店なのにメニューには麦酒がない。

「麦酒のメニューはないの?」

と、マリイさんが聞く。長い手足は懐かしく美しい。猫背で煙草を吸う姿も。

「お客さんは何がしたい気分ですかね」

と、お婆さんは問う。

「俺は宇宙にでも行くかな」

お婆さんは自分の頭よりも大きなジョッキになみなみと金色の麦酒をついでやってくる。麦酒の中には土星やら銀河系みたいのやら月やらなにやら沢山浮いている。綺麗だけど美味しくなさそう。

マリイさんはそれを飲み干すと同時に消えた。漫画が並ぶ本棚にぽつんと置いてあった星座の本をめくると、マリイ、という星座が載っている。残された私はワインリスト片手に戸惑う。

「で、お客さんは何がしたい」

と、お婆さんは私に聞いてくる。何がしたいんだろう、私。ただ麦酒が飲みたかっただけなんだけどなあ。

本当に私は何がしたいんだろうなあ。考える。

「全部チャラにしてみたい」

出てきた麦酒には綺麗な腕時計が入っている。こんなもの飲めるのだろうか。

麦酒はきちんと麦酒の味で、舌や口蓋や喉をきちんと刺激しながら食道を通りどぶりどぶりと胃に落ちていく。

暫くすると、私も足元から消えていく。これで全部チャラになる。急に怖くなる。突然、子供の手のぬくもりを思い出す。そうだ、私はお母さんだったじゃないか。どうして忘れていたんだろう。だめだだめだ。全部チャラになんてしちゃだめだ。ちびが待っている。嘘だったの。そんなことがしたかったわけじゃない。いけない、忘れてはいけない。ご破算なんて馬鹿げている。いやだいやだ

と、遠のく意識の中で繰り返す。

マリイさんの部屋は煙草の匂いと変に水っぽい黴のような、シャンプーの残り水のような匂いがしていた。マリイさんの身体からもいつもその匂いがしていて、当時の私はどうしたって鼻をくっつけて匂いをかがずにいられなかった。

昨日エレベーターに乗った時に、どうしてだかそれと全く同じ匂いがしたんだ。目眩がするほどに同じ匂いが。

だからこんな夢見たのだろうか。