風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

手紙「夏の夜」

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昨日のラジオ放送で、ユーラシア大陸アメリカ大陸が3光年の距離まで遠ざかったというニュースをやっていた。俺の島はどこの大陸に属しているんだろうな。この電波はどの大陸から飛んでくるものなのだろう。

君の手紙を読んでいると、見たこともない雪というものがひどく懐かしいものに感じられて不思議だ。それは深海よりも冷たいものなのだろう。この手で触れて、舌で味わってみたい。それから雪林檎のジャムも。

今、夕飯を作っていたところだ。ココナッツとアーモンドをまぶした星海老のフライに、チリソースで煮込んだ豚のソーセージとじゃがいもに人参、海賊サラダに今朝窯で焼いた胡桃パン。先月麦酒が手に入った。コロナが6ダース。青島は8ダースも。他にも缶詰やらなにやら。どこかの船が大陸に行き着けずに沈んだんだろう。不謹慎だが卒倒するほど喜んだのは言うまでもない。そしてデザートは焚き火で焼いたバナナのチョコレートソースがけ。

食欲は出てきたかい?

ウッドデッキ(なんて洒落たものでもないが)にテーブルと椅子をセットして、食事を並べる。夜はこちらも濃密だ。闇はねっとりと腕に脚に絡みつく。波の音は寄せては返し、空にまで立ち昇るようだ。今夜は月が出ている。波の音に紛れてしまうが、耳を澄ませばぎぃぃぃぃと重たい歯車がゆっくりとまわるような星座たちの回転音が聴こえる。思えば星々の回転も、車輪のようなものだな。君の言う宇宙の車輪というのは、巡る星座たちの軌道なんじゃないだろうか。

海の色はソーダライトやラピスラズリといった、暗く深い青のグラデーションだ。夜の中で空と海との境目はない。海の青が夜空に溶けるその様は、まるで一つの宇宙のようにも見える。

月はマグネシウムを焚いたように明るく、風は温かい。月が雲に隠れる時だけ、全くの闇が訪れる。海も陸も全て黒に沈む。鼻の先すら見えないほどの、闇。その闇をぬって、人魚の歌声が届く。濃厚な花の香りが届く。それは痺れるほど甘美な気持ちにさせてくれる。その甘さは毒に似ている。或いは死に。

そうだ、君の住む場所にも死神は現れるだろうか。

左眼の下に涙の刺青。右頬にはペルセウス座。顎の下には小さな南十字星。右腕にはピカビアの詩の一部が刻まれている。左腕にはランボーの「永遠」。それから流れる雲と太陽が刻まれ、指先には雨の雫が流れる。首筋から背骨に沿って十二星座の名前が全て刻まれ、双方の貝殻骨にはダリヤと薔薇の花、その花の下、背骨を挟んでは一対の一角獣がそれぞれ彫られている。腰から下にはコルコバードのキリスト像とそれに群がる人魚たち。滑らかな腹には茨に囲まれたダイヤモンド。美しい形の胸の上には虹を背負った青い鳥が羽ばたく。右の脚には月を胸に抱いた聖母マリアと、左の脚には火を噴くドラゴンが飛翔する。美しい珊瑚色の唇は青瑪瑙を噛み砕き、暗く深い穴のような眸には星が弾ける。夜毎現れる死神の姿だ。

本物の死神かどうかは知らない。俺がそう呼ぶだけだ。毎夜、毎夜、死神は月の隠れる闇の中に訪れる。闇の中で淡く光を放ちながら俺に微笑みかける。手を差し伸べる。見つめる俺の口は闇を飲み込むかのようにだらりと開き、舌はからからに渇く。震える手を伸ばそうとすると、雲が流れ、月の光が砂浜を、海を照らす。瞬く間に死神はまるで夜に溶けるかのようにその姿を消す。君は俺の頭がおかしいだけだと思うだろうか。孤独が見せる幻影だと笑うだろうか。

本当は、俺は死にたいのだろうか。

ソーセージは炙ったあとで鍋に入れたから、ぱりっと歯ざわりがいい。星海老のフライもさくさくとよく揚がっている。パンを千切ってソースに浸して食べる。咀嚼と嚥下。その繰り返しは生きる歓びを運ぶ。その繰り返しは全て俺の骨や血液や脂肪、肉、内臓、何もかもを形作る源だ。咀嚼と嚥下。そのリズミカルで躍動的な繰り返しは俺の心に熱い血流を注ぎ込む。まだ大丈夫だと思う。それでも死神は夜毎現れるだろう。あれは俺の作り出した幻影なのだから。

夜の底は深くまるでそのまま宇宙へと繋がるようだ。流星はざらざらと雨のように降り、海に落ちたものは海星になる。いつの日か人魚たちは貝殻に、月の光は珊瑚になる。俺たちは死んだら何になるんだろうな。その後、なんて信じてもいないのに時折考える。案外全て嘘っぱちなのかもしれない。全ては夢で、ある時突然知らないベッドの上で目覚めるのかもしれない。そうして知らない人生の続きが始まる。メビウスの輪のように、どこにも行き着かない。

だとしたら随分と滑稽で残酷だ。せめて目覚めたベッドの隣で君が眠っていることを祈る。

夜明けは夜の天井を押し上げるようにやってくる。光がその隙間から乱雑な階段のように四方八方へと伸びてゆく。黒に沈み込んだ世界はたちまち色の氾濫でその空の器を満たす。海はまた幾千もの色を取り戻し、全ては動き出す。

それでも今はまだ、夜明けは俺の手の届かない遠い場所にいる。輪郭さえ溶けて滲み出しそうな夜の闇の中、息を詰めて世界が戻ってくるのを待っている。

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