風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

female side 3

レイちゃんは驚いたように顔をあげる。その顔は奇妙に歪んでいる。喜んでもらえると思った私は急に胸のあたりが痛くなった。そうして私は自分自身でも驚いているのだ。小林君と別れるなんて、ついさっきまで考えてもいなかった。「別れる」という言葉が思わず口をついて出た瞬間に、そう、同時に気がついたのだ。私は彼と別れなくちゃあいけない。

彼女の奇妙に歪んだ不可解な表情は、そっくりそのまま私自身の顔にも張り付いているのかもしれない。

「小林君て、いい子だよね。大人ぶってるけど、すぐに真剣な子供の目をするから疲れるんだ。そんな目で見られるとさ、全然痛くないのに痛い気分になっちゃうんだよね」

「それに私はあなたが言うように結婚しているし、小林君よりも夫の方がもちろん好きだし。愉しかったけどそろそろお終いにするよ」

本当だった。それでもそこには嘘がじわじわと混じり込んでいる。

小林君よりも夫の方が好きだというのは本当。彼の子供みたいに切羽詰まった眸に疲れてしまうのも事実だ。でもそれだけじゃあない。彼は昔の恋人に似すぎているのだ。

くしゃくしゃと柔らかそうなくせ毛。骨の存在をリアルに感じさせるごつごつとした骨格。色素の薄い眸。足の指の形。煙草をくわえるとだらしなく見えてしまう唇。使っているシャンプーの匂い。彼と逢うたびに、懐かしすぎて死んでしまいそうだった。決して顔が似ているわけではないのに、あの人を思い出させて、止まらない。きっと私はこれ以上記憶の断片の中にいたら、全部思い出してしまうだろう。

昔の恋人を思い出すのはかまわない。怖いのは、あの頃彼を好きでたまらなかった自分を思い出すことだ。結局私は、あの時の自分を追いかけているだけだった。影に恋をするように今を生きるのなんて、冗談じゃない。

だったら初めから目をそらすべきだった。目の前の彼女を見て思う。勝手に過去を追い求めて、結果誰かを傷つけている。

レイちゃんが口元を歪めたまま、苦しそうに言う。

「ひどいじゃないですか。亮介はあんなにあなたのことが好きなのに。無責任に亮介の気持ちを捨てないでよ」

その通りだと思う。でもどうしようもない。私はこれからの私のことしか考えることができない。そこには小林君も、過去の私もいてはいけないのだ。

「そうだね。ひどいんだ。だから浮気なんてできちゃうんだよな。サイテーだと思うよ。だからやっぱり小林君は私と別れた方が絶対にいいよ」

レイちゃんは唇に力を入れたまま、不思議そうに私を見ていた。

それからは二人とも沈黙の海に沈みこんだままピザを飲み込み、ワインを飲み、レイちゃんはそれでも席を立つ様子もなく、同じように沈み込んだまま新たに頼んだモスコミュールを飲んだりしていた。

グラスワインを七杯ほど飲んだ時に彼女がぽつりと言った。

「わたし、三十過ぎた女の人ってみんな江國香織の小説に出てくる人みたいな喋り方するんだと思ってた」

思わず噴き出した。なんて素敵に面白いこと言うんだろう、この子は。そしてとても下品に笑いながら「んなわけないってー。つーか少なくとも私のまわりにはいないね」と言ってぶわはははと笑い飛ばした。そしてこんなことでなかったら、この子とは案外いい友達になれたのじゃないかと思ってほんの少しだけ切なくなった。

さあ、今夜はお家に帰って蜆のお味噌汁と夫の好きな青椒肉絲を作ろう。大根の葉っぱは胡麻油と醤油で炒めて炊きたてのご飯に混ぜて食べる。ビールと一緒に頂いてお腹が一杯になったら、久しぶりにグレープフルーツの匂いがするバスソルトを入れてゆっくりお湯につかろう。寝る前には昔の恋人がよく歌ってくれたレコードをかけながら寝よう。夫は私よりも後に眠るだろうから、きっとスイッチを切ってくれるだろう。

そうして明日の朝になったら、小林君と過去の私に自分勝手なサヨナラを言おう。

end