風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

雪の如く記憶の降る(雪柳)

和室の縁側には夏の終わりには蝉の死骸が、秋には蜻蛉や蝙蝠の死骸が転がっていることが多かったので、臆病者の私はあまり足を踏み入れなかった。仏壇の置いてある小さな和室には着物の入った桐の箪笥と桜の小さな鏡台が置かれている。その仏壇には十七年前からHさんの写真が飾られている。山頂で撮った、とてもいい笑顔の写真だ。青い空がバックで、風に髪がなびいていて。

夏になるとその畳の上で水色のお盆提灯が回る。新盆には一緒にお墓参りに行った。夜にお参りに行って、墓前に供えた線香から火をもらって提灯に灯し、そのまま持ち帰る。火の灯った提灯をそおっと抱えながら車で家に戻ると、お仏壇の蝋燭にその火をうつす。そおっとそおっと提灯を畳んで、蝋燭に火を近づけた途端、消えてしまった。

家に着いた途端に消しちゃうなんてねえ、せっかく車の中も持ちこたえたのに。

「でもあたしたちらしい、って、Hさん笑うわね」とEと母が言い、みんなで笑って、泣き笑いになった。

夏の海水浴は寺泊。Hさんはまだ泳げない私をゴムのボートに乗せて沖まで引っ張って泳いだ。沖から見る砂浜は遥かに遠く、それでも怖いとは感じなかった。夕方にはウィンズで山小屋風カレーを食べる。晴れた日にはテラスから佐渡島が見える。夜は星がざらざらと降る。

冬は白馬にスキーへ行く。まだ一人で滑ることのできない私を、Hさんは足の間に挟んで一緒に滑ってくれる。目の前に広がる白はあまりにも大きすぎて目眩がした。宿泊した山荘の談話室で流れていたイタリアの映画を見ながら「この女優さん、○○ちゃんと同じ名前なんだね」とHさんが言う。気に入らなかった自分の名前が、その時からなんだか素敵な響きを持っているような気持ちになれた。

父親のような愛情をもらっていたと思う。それ故なのかあまりにも近すぎて、年頃になると本当に本当の娘であるかのように素直に接することがうまくできなくなった。昔のように膝に乗ってわがままなおしゃべりを続けることができない。手をつなぐことができない。心は前と同じ、大好きなことには変わりないのに、身体が行動がついていかない。思春期なんてろくなもんじゃねえと、今でも舌打ちしたい気分だ。

小学校六年生の夏、弥彦山に登山することになった。W夫妻はワンダーフォーゲル部だったので山を愛している。それなのにHさんはその日は留守番をしていると言う。私は子供で知らされていなかったけれど、その頃にはだいぶHさんの身体は参っていたのだろう。

登山の前に母とEと朝市に出かけた。季節の野菜に混じって花も売られている。

雪柳が売られていた。どうしてだかその緑色に白い雪が絡まっているような素っ気ない花が欲しくなって、買った。丁度両手の輪っかにいっぱいくらいの雪柳の束。これはHさんのお土産にする、と言ったら、Eが「それHさんが一番好きな花だわ」と言った。薄い甘い匂いの雪柳は頬に冷たく当たる。

家に戻って、Hさんに雪柳の束を渡すとすぐに花瓶に活けて応接間のテーブルに飾ってくれた。「一番好きな花、よくわかったな」と。私の一番好きな花も、その時から雪柳になった。

その日は結局、私も留守番にする、と言って、リュックサックを背負った母たちを見送った。雪柳をはさんで斜交いに、Hさんは少し大儀そうにテレビを眺めていて、私はノートに落書きをしたり本を読んだりしていた。Hさんは珈琲を飲んでいて、私には麦茶を淹れてくれた。テレビの音と、開け放った窓から滝のように流れ込む蝉の声。うるさいはずなのに、記憶の中にあるのは静寂だ。クーラーなんてつけていなかったから、腕の内側が汗ばんでぺたりと木のテーブルに張りついている。鉛筆を走らせる音と氷のぶつかる音。雪柳の青く甘い匂い。

がちゃんばたんと玄関口から派手な音がして、ダイニングの硝子戸を開けると知らないおじいさんが上がってくるのが見えた。わけのわからない言葉をぶつぶつと呟きながらこちらに向かってくるので思わず胃のあたりが冷たくなった。後ろから来たHさんが「ああ、おじいちゃん」と言ったので腰のあたりがへにゃりとした。

三人で応接間のテーブルを囲み、雪柳越しに噛み合わない会話が交わされる。「ぼけちゃってるんだよ」とHさんが言うように、確かにおじいさんの言葉は支離滅裂だった。

「…帰ってきらった。そっで墨こと炊いてやらなくちゃいけないんだて」

ほとんど覚えていないのに、その一言だけやけに鮮明に覚えている。Hさんは静かに「そりゃいいことらね」と答えた。

三人でお蕎麦を取って食べて、Hさんはおじいさんを家まで送って行った。広い家に一人残されると蝉の声が急に大きくなった。

それから二年後にHさんは死んでしまった。

三条の空は、思い出すとなぜかいつも薄く鈍い銀色に曇っている。青い稲穂の波の上に広がる海のような青空だって私はもう何度も見ているはずなのに。星がざらざらと落ちてきそうな透明な黒い夜空も見ているはずなのに。

どうしてだかいつもぼとりぼとりと音立てて落ちてきそうな灰色の雲ばかりが目の前に広がる。