風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

female side 1

怒っている女の子って、ちょっと可愛い、なんて思ってしまう私は既におばさんなのだろうか。

水曜の午後三時。バイト先のカフェに冷蔵庫の中のチョコレートみたいに硬い表情の女の子がやって来た。

赤味がかった、ローズヒップティみたいな色のふわふわとした髪の毛は肩にかかるくらいで、ぱつんと切り揃えられた前髪が人形めいている。その重たげな前髪の下には色を抜いているのであろう薄茶色の眉と、くるりと丸い眼が光っていて(大きくはない)、鼻がちょっと丸くて子供じみているけれど、とがった顎や意外に綺麗な形の小作りな唇、それに髪の毛の色にとてもシックに合っている古着っぽいくすんだ水色の変な形のセーターは彼女の雰囲気に合っていて、十分に可愛らしい。フランスの絵本のキャラクターにいたよな、こういう感じの女の子。なんだっけなあ。

変な形のだぼだぼとしたセーターの下からはラベンダー色のスキニーパンツが伸びていて、ミントグリーンのボアブーツを履いている。マカロンみたいだな。

何をそんなに怒っているのか眉毛はりゅうと逆立って、眉間のあたりに不穏などす黒い怒りが渦巻いているのが目に見えるようだ。苛々とメニューを捲っている。右足はバスドラムを踏んでるみたいに貧乏ゆすりをしている。なんだか羨ましくなった。こんなに傍目にもわかるくらい頭にくることがあるなんて、それってきっと大切なものが多いからなんだろうな。と、考えて、自分がその女の子を知っているということに漸く気が付いた。

小林くんの友達だ。半年ほど前に一度、彼が休みの時に女の子の友達と男の子の友達を連れてきたことがあったっけ。オーダーを取りに行ったときに簡単に紹介されたけれど顔はおぼろげにしか覚えていないし、ましてや名前なんか記憶に手を伸ばしてみたって、かすりもしない。でもそうだ、あの時の女の子だ。初対面にしては強い目で見つめられたので男の子の友達の方よりもよく覚えている。

そうか、だから怒っているのか。

彼女はまだメニューをいらいらいらと見つめている。その紙自体が敵であるかのように。その横顔を眼の端に捉えながら、私はレジスターをかしゃんかしゃん鳴らしながら、デート中であろう焦げたトーストにパーティークラッカーの中身をぶちまけたみたいな男の子と女の子にお釣りを渡した。ギャル男っていうの?ああいうの。

ありがとうございました、と二人を送り出すとフロアには私と彼女とかのちゃんの三人だけになった。彼女は私よりも近くに立っているかのちゃんではなく、カウンターの中に立っている私にぴたりと視線をあて、ぴりぴりと音を立てそうな声で「すみません」と私を呼んだ。

「お決まりですか」

「話しがあるんです」

「恐れ入りますが、ただ今勤務中ですので」

「何時に終わるんですか?待ってます」

私は壁にかかった時計を見て答えた。

「今日は四時半上がりですのでお待ちいただいてもよろしいですか。で、もし今ここでコーヒーだのジュースだの飲む気分じゃないんだったら駅前のプロントで待っててよ。上がったら行くから」

彼女は私の最後の砕けた口調に少し目を丸くしたけれど、すぐにまた眉毛を逆立てて「アーモンド・オ・レ。それ飲んだら先に行って待ってますから。逃げないで下さいよ。」ときりりと言った。私が「どうして私が逃げなきゃなんないのよ」と驚いて言うと、彼女はそれにもまた目を丸くしかけたけれど、すぐにきりりと前を向いてそれ以降完璧に私を無視した。

かのちゃんがほんわりと甘い香りを放つアーモンド・オ・レを運んでいくと、彼女はそろそろと口を近づけて(猫舌なのかもしれない)ちびちびと飲んだ。そのうち適温になったのかがぶりがぶりと飲み始めると、彼女は寛いだ猫のように見えた。怒りで我を忘れているように見えても、おいしいものに素直に反応してしまうというのは、何だか健やかでいいですねえと思う。

彼女はまるで風呂上りの牛乳のようにアーモンド・オ・レを飲み干すと、来た時のようにかちかちと肩をいからせレジを済ませて店を後にした。いつの間にやら後ろに忍び寄っていたかのちゃんが面白そうに「わけありですか?」と、目元と口元にまるで「ふふふ」という三文字を貼り付けたかのような表情で聞く。ぽやんとしているように見えてこれがなかなか侮れないのだ、かのちゃんは。

「さあねえ。わけなんてたいして抱えてないんだけどねえ」とのらりくらりと私はかわす。

そう、たいした「わけ」ではないと私は考えている。感じの良い男の子と寝てしまうなんて、よくあることだし、それが誰かの好きな男の子だったとしても、別に全然大したことじゃない。

小林くんという男の子とは、一年前にここのカフェのバイト仲間として出会った。彼は夜のシフトがメインで、私は昼間のシフトの方が多い。それでも週に一日か二日くらい同じ時間帯に入ることがあった。バイトは彼の方が三か月ほど先輩で、人生は私の方が十三年も長く生きている。彼は一か月で私に恋をしたそうだ。そうして二か月目に映画に誘ってきた。何度か陳腐なデートをして、四か月目に寝た。よくある話だし、そう面白い話でもない。スピーディでもなければ情熱的でもない。いや、情熱的でないというのは私に限ったことかもしれないけれど。

私は彼に対して年の差というものを感じていない。でもそれは彼が特別なわけでは全然なくて、私は誰に対してもあまりそういう感情を抱かない。目の前にいる人をきちんと個人として認識して話をすれば、大概年の差なんてどうでもいいことだと思えてくる。それに彼は音楽も映画も軽薄ではないくらいに良く聴き、良く見ているので話していると結構面白いのだ。私は何に関しても広く浅く手を出す方なので、何かに深入りしている人を見るとすぐに「すげえなあ」と思ってしまう。だからそういう相手に出会うと、自分でもそうとは気づかないうちに、うっかり一緒に朝を迎えたりしてしまうのだ。

彼女が勇ましく出て行ってから、初老の夫婦が一組と、サラリーマンが一人、立て続けに入った。平日の昼下がりなんて、だいたいこんなものだ。オーダーもコーヒー、紅茶といったドリンクが主だからたいして忙しくもならない。窓の外は夕闇色が降りてくるように、空気が青みを増してきた。

四時三十五分、サラリーマンが携帯電話を片手にあわただしくレジを済ませ店を出るのを見て、私も帰り支度を始めた。

私が四時半(日によっては三時)に上がるとかのちゃんは五時までの時間をひとりでまわす。シフトによっては私がひとりになる場合もある。それが三十分であれ二時間であれ、一人の方が断然気が楽だ。話好きでおっとりとしたかのちゃんだって、案外そうなのかもしれない。

暖房の効いたガラス張りの店内にいると、一枚向こう側の寒さというのが全くわからなくなる。夏の時にはその暴力的な暑さが。店を一歩出て世界に触れると、いつも私は裏切られたような気持ちになる。

今日も世界は私を裏切る。風は氷のように冷たくて、アスファルトから針のような冷気が立ち上ってくようだ。マフラーをぐるぐると首と口元に巻きつけて、早足で駅前へと向かった。