風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

But not for me #5

手を伸ばせばすぐ触れられるところにあんたの喉仏があって、ちょっと背伸びでもしたら唇だって触れられる。そういう距離に、私たちは今いる。雪柳の、淡く緑がかった甘い白い匂い。水底のような夜の底。

そんな場所に私たちはいたのにね。

凶暴なフラッシュの光に視界が一瞬ホワイトアウトして我にかえる。飾られた百合の匂いで頭が痛い。

遠ざかる透子の短い髪の毛が、青白い光に歪んだ視界の端に映った。透子はいつも、いつまでも俺から遠ざかる。俺たちは視線だけしか近づかない。今までも、これからも。

仙波と諒太郎に肩を叩かれ、伊東とおどけて握手をして、それでも眼はどうしても透子を追う。

俺はずっと透子が好きだった。

さようなら、透子。あんなに好きだったなんて、嘘みたいだ。好きだったという記憶は、さっきのフラッシュとともに宇宙のかなたに飛んで行った。いや、飛んで行った、って思いたいんだ、俺は。隣に座る彼女の為に。

いや、それも嘘だ。ただ自分自身の為に、だ。

五月の終わりの、夏の始まりのあの夜。雪柳の匂いするあの夜。透子が伸ばしてきた手を受け止めなかった自分を、もう10年近くも悔いている。俺の頬に触れる、その直前に微かに震えたその細い指を、どうして俺は握りしめることができなかったのか。女々しい、という言葉はきっと俺の為に存在する。だけれど悔やむ、心底悔やんでいる。

透子の指が俺の頬に触れるその直前に、俺は思ったのだろう。透子が諒太郎を裏切ることで背負う傷と、俺が諒太郎を裏切ることで失うもろもろを。

だけど、きっと一番怖かったのは、友情を裏切る俺を透子がどう思うのか、だった。

それでも、二人して夜の底に落ちて行けば良かったんだと、今は本当に、そう思っている。

だからもう許してほしい。俺はもう過去から自由になりたいと思う。

俺はこれからもう何も振り返ることなく、盲滅法に幸せになるよ。

だからごめん。あんたの幸せまで祈っている余地はない。

繰り返されるシャッターの音。なんだか耳障り。それに照明も不愉快に熱い。仁の友達が席に戻るのをにこにこと見送りながら、あたしは心の中で中指を立てる。

あたしは仁の友達が大嫌い。

例えばゴールデンウィーク。せっかく二人きりで箱根か伊豆にでも旅行に行こうと思っているのに、「ジン、バーベキューやろうぜ。彼女もつれてこいよ」。

例えば夏休み。ようやく仕事のスケジュールを調整して3日間だけ休みがかぶって、今度こそ沖縄にでも行きたいな、なんて思っているのに、「ねえカンノ海行こうよ。あ、彼女も一緒に」。

冗談じゃないっつーの。あたしはあんたたちとバーベキューも千葉の海も行きたくない。あたしは仁と二人きりで静かに甘い時間を過ごしたいだけなのに。邪魔しないでよ。

いつだか残業切り上げてバーに行く約束していた時も、仁の携帯がぶるぶると嫌な感じで震えだした。案の定、仁は言う

「中目で諒太郎たち飲んでるって。花も行く?」

あんた馬鹿?花も行く?じゃないだろう。ねえ、あたしと友達とどっちが大事なのよ、なんて甘ったれたお門違いの質問はしないけどさ、それよりなによりあたしとの約束の方が先だったじゃん。友達との約束が先だったならわかる。でも断然、いっつも、あたしとの約束の方が先じゃない。

でもあたし、そんな不機嫌さは完璧に笑顔の下に隠しちゃう。で、言うの

「ほんと!行く行く」

いやんなっちゃう。でも嫌われたくないんだもの。仁にも、仁が好きなやつらにも。だからあたしはいつも、あたしとは全然関係のない「ともだちのわ」の中に入って、ついていけない内輪話にも嫌な顔せず、にこにこにこと付き合う。

そうすると必ず言われる。

「花ちゃんはほんといい子だよなあ。ジンのことこれからもよろしく」

あたしはこでまりみたいに微笑みながら「はい!」なんて言う。頭の中では(うるせーや、おまえらいい加減友達離れしろよ)なんて思っている。

そんなあたしって嫌な奴かな、と幼馴染の池ちゃんに聞いたら、「いや、当然の感情でしょう」と言ってくれたから嬉しかった。だいたいあたし、大勢でわいわい騒ぐのあんまり好きじゃないし、しかもあたしにとっては知らない人ばかりだし。

それといつも名前ばかり登場して、あんまりその場には顔を出さないトウコとかいう女。そういう集まりに行くと仁がいつも一番最初に聞く「トウコは?」の、トウコ。こいつが一番嫌い。

諒太郎くんの恋人だという彼女はバーベキューにも海にも来なくって、飲み会にもそんなに顔を出さない。それでもその彼女が仁にとって他の誰よりも特別な何かだってことはわかってしまう。彼女にとっての仁が特別な何かなんだってことも。

仁の言葉の端々に、二人のさりげない視線の彷徨いに。それはありありとあたしには見えてしまう。仁しか見えていないあたしにはどうしたってわかってしまうんだ。

短い髪の毛でマスカラだけ綺麗に塗った彼女の顔は確かに仁が好みそうな顔だ、と思った。

メイクを落とした時のあたしの顔と、少しだけ似ていた。

だからって、あたしは傷ついたりはしない。そういうの嫌がる女の子って多いと思うけど、ただそういうタイプの顔が好きなんだって思えばなんてことない。大切なのはあたしが仁のことを好きだということと、いま現在仁はあたしの隣にいるってことだけだ。

でもそれに気づいてから、仁の前ですっぴんのままいることが少なくなったのは紛れもない事実だ。結局はあたし、傷ついていたんだろうか。

「トウコ」は仁のことを「カンノ」と呼ぶ。あたしは仁の会社の後輩だったから、「神野さん」としか呼んだことがない。「神野さん」から「仁くん」へ、そうして今は仁と呼ぶ。

でも彼女の発音する「カンノ」という響きには、あたしが呼ぶ「仁」という響きよりも、仁らしさがより多くつまっているような感じがして悔しい。

今日だけはぐだぐだどろどろと考えるのはやめようと決めていたのに、彼女の横顔が目に入った瞬間からあたしの思考は蛇みたいにぐるぐる嫉妬の沼で渦巻いている。

馬鹿みたい。あたし、花嫁なのに。

もう考えるのはよそう。どんなに過去が頑張ったって、これからの未来に勝てるわけがないんだから。

勝ったのは、あたし。

だってこれからずっとどんな時も仁の隣にいるのはあたしなんだもの。