But not for me #4
重たい扉を開けて、細い階段を上がって、切り取られたような黒い夜の下へと降り立つ。夏の始まりの、春の終わりの、あの匂い。雨あがりみたいな土の香り。
空は曇っていて、分厚い埃みたいな暗い灰色。雪柳の甘い匂いが漂う。ジッポの音がして、オイルの匂いが鼻をくすぐる。空に吸い込まれていくような、煙草のけむり。足音だけが響く。
カンノが掠れた声でフィッシュマンズのマイライフを口ずさむ。
トウキョウの夜の空というのは、結構明るいよなってカンノが言う。確かリョウタロウもおんなじこと言っていた。
―東京って真っ暗闇が見当たらないよな。どこもかしこも薄ぼんやりと明るい。
「なんか駅前まで行くのめんどくさいなあ」
「あんたが食べたいて言ったんだろ」
「そうだけどさ」
だって、こんな気持ち良い夜の下、ただ歩いているだけでいいんだもの。カンノの隣で。いい匂いのする夜の底で。
垣根から垂れさがる柳が揺れて、薔薇の匂いがした。アルコールでひたひたとした身体が、歩くたびにごつりとぶつかり合う。わざとぶつかるように歩いている。私が?カンノが?両方かもしれない。
ゆらゆらとたゆたう視線の少し上にはカンノの綺麗な喉仏。かみつきたくなるようなのどぼとけ。
薄い闇の中で、水銀灯に照らされたカンノの横顔は影絵のように輪郭が淡い。午前1時半を過ぎたとこ。そろそろリョウタロウが回す番だ。きっとブースから私を探すだろう。いつまでもとらえられない私の影を探して、いらいらと視線をさまよわせるのだろうか。
トウコさんてずるいと思う、ってサークルの後輩の女の子から言われたことがある。
―なんなんですか?ニシカワさんがいるのになんでカンノさんにも色目使ってんですか?ずうずうしくない?サイテー。
そんなん知ってるよ。私はね、サイテーなの。ずるっこなの。なんとでも言ってよ。どちらか一方に決めろ、なんてこと、自分が一番思ってる。私だってこんなにカンノのこと好きなんだったら、さっさとリョウタロウと別れてカンノに正直な気持ちを伝えるべきだって、そんな簡単なことわかってる。
でもね、考えちゃうのよ。だってリョウタロウってどうしてだか私のこと本当に好きでたまらないわけよ。
明け方にカーテンの隙間から差す朝日に照らされた、リョウタロウの無防備な寝顔。新宿御苑でハーゲンダッツ食べながら見せるあいつの笑顔。背中にほっぺたつけた時に鼻をくすぐる煙草の残り香。そういった全てが私を躊躇させる。
私だって、リョウタロウに依存するところが未だあるのだ。
無条件に愛されることは、熱いシャワーに身を浸すような幸福感に包んでくれる。それが自分にとって本当に必要なものなのか、考えられなくなるくらいに。
私はずるい弱虫だから、傷つくことよりも傷つけることの方が恐ろしい。なんて、偽善だってみんな笑うだろう。偽善でもいいよ。いや、実際そうなんだろうと思う。ずるい私はリョウタロウを傷つけて自分が悪者になることが怖いんだ。
そして、リョウタロウを傷つけた私をカンノがどう思うだろうか。それが一番怖い。
わかってるよ。私はあの後輩女子が言うようにサイテーなんだ。