風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

世界の端っこで僕たちは脇役 ett

「パイナップルの樹を探してるんだよね」

と、緑色した猫は一声鳴いて消えた。

9:20、目が覚める。果たしてパイナップルというのは樹に生るものであったっけ。寝惚けた頭で考える。どうでもいい。歯を磨く。

僕の住む古いマンション(築46年)の洗面台は僕の背丈には少しばかり低すぎるのだけれど、お湯なんて出てこない三角の形した蛇口をひねるとぼうぼうとまるで水の柱、のように迸って流れ出てくる水のその勢いは素敵だ。これって今時のつるつるでぴかぴかのまっさらなチョコレートみたいなマンションの部屋の蛇口からは見られないよね。しゅわしゅわー、なんて柔らかい音で出てくんだ、今時の素敵なマンションの洗面台の蛇口からは。

10月の水は充分に冷たい。僕の指先はすぐに赤く染まる。皮膚が薄いんだ。湯呑みとか持てないくらいさ、まじで。ぼうぼうと迸る冷水で顔を洗うと少しばかり視界も思考もクリアになって、僕は夢に出てきた緑猫の一言を思い出す。

パイナップルの樹。あの棘棘としてそのくせいやに陽気な感じの果物を思い浮かべる。あんなもの、鈴なりに枝になるとすれば危なっかしくて下を通れたもんじゃないな。鏡の中の顔は鼻の先と唇がいやに赤い。冬が来るな。

今日は日曜日だから恋人の曜子さんがくるのだけど、このところ僕はあまりセックスをしたくないんだよね。嫌いになったとか飽きたとかそういうんじゃないんだ、といっても誰も信じない。彼も彼女も曜子さんも誰も。どうしてぇ?って頭の天辺から声がでちゃうよね。呆れたときって出るよね、そういう、すこん、て抜けた感じの声。びっくりが鼻から抜けるんだろうな。

僕は別に隣に座ってるだけで結構幸せなんだよ。いや、ほんと。で、曜子さんだって途中まではそう見えるんだ。例えば彼女が淹れてくれた珈琲を飲みながら僕は鼻唄を歌っていてさ、彼女は本を読んでいたり。たまにハミングを止めて、頁を捲るのを止めて、キスしたり。そういうのはいいんだけど。そこから急に獣の目つきになっちゃう曜子さんが怖かったりする。なんて言うと男友達は「お前インポなの?」なんて言うし、女友達は「草食系なんだね」とか言う。みんなそういう風に分類するの、好きだよね。勝手にラベリングされて僕は迷惑だけど。

台本通り、みたいなのが疲れるんだ。多分。違うかな。そうだな、どこにも僕がいない、みたいな感じ。曜子さんも。いや、いるんだけどさ。なんていうか欲望って単独の生き物みたいなときあるよね。考え込んでしまうんだよ、最近。これって僕なの?ほんとうに?って。考えすぎ?そうかもしれない。

おはようのあとのコーヒーブレイク、音楽聴いてキス、夜ご飯にお酒、服を脱ごうベッドに行こう、みたいな流れ。ああでも、流されてんのかどうかもわからないけどさ。ただ僕は今現在ソウユウコトをしなくても曜子さんが隣にいるだけで仲良しのアナグマみたいに幸せな気分だから敢えてオオカミのように振舞いたくはないということなんだけれど、いまいちその思いはうまく理解してもらえていないという現状。

とりあえず服に着替えよう。

ぴん、とインターホンが鳴ってすぐにがちゃがちゃと鍵の音がして曜子さんは冬の匂いと一緒に僕の部屋に入ってくる。鍵を持っているんだし今日来ることはわかっているんだから別にインターホンを鳴らすことないんじゃない?とその都度僕は言うんだけれど、その都度曜子さんは「ノックなしの侵入がどれだけ多くの悲劇を生んできたか知らないの?」と真剣に答える。

だから僕も「知らない」と真剣に答えるんだけど。それにノックじゃなくってインターホンだし。

今日の曜子さんは縞々のワンピースの上に綺麗な朱赤のニットコートを着ていて目がちかちかするくらいに素敵だ。小さな頭にはトナカイ模様の灰色とベージュと白の手編みの帽子をかぶっている。この間のデートの時に古着屋で見つけたやつだ。馬鹿げたでっかいボンボンのついた帽子。500円だった。

「編むより安い」と嬉しそうに言う曜子さんのがま口財布にはなんと463円しか入っていなかった。だから僕が買ってプレゼントしたんだった。

コートをするりと脱いで曜子さんは僕のことを抱きしめる。

「曜子さん、今日は一段と冬の匂いがするね」

「うん。走ってきたから沢山風が当たった。杉生くんはなんだかヒツジの匂いがするね」

「うん。昨日から毛布出したんだ」

ああ、だからか、と、くんくん匂いをかぐ曜子さんはもうけっこういい大人なんだけど。

抱きしめるとなんだか杉生くんの胸元からは生き物の匂い。羊っぽい匂い。羊の匂いがするね、と言ったら、毛布を出したんだ、と杉生くんは笑った。温かくて優しい匂いで思わず猫のように鼻をくっつけてかいでしまった。

辛子色のTシャツの上にアイスグレーの薄いセーターを着た杉生くんの身体はとても薄くて細くて、ぎゅうと抱きしめたらぽきりと折れてしまいそうなくらいで。

浮き上がるような肋骨とそこに薄く綺麗に貼られたような筋肉が好きだったのに、最近の杉生くんはそれを私に見せてくれなくなった。触らせてくれなくなった。

「嫌いになったの?」と聞くと困ったような顔で「そうじゃない」と言う。そういう気分じゃないんだ、って。嘘をいうような人ではないし、もし仮に本当に私のことが嫌いになったのであればあっさりと別れを告げる、どちらかと言えば真摯な人だ。冷たいと人は言うかもしれないけれど。そういうことって誤解されがちだと思うし。だからきっと本当に、いつだか一生懸命語ってくれたように「仲良しのアナグマのように寄り添うだけで幸せ」なのだろうけど。私は思うのだ。アナグマだって冬眠明けには交尾するんじゃない?生きていくことはそういうことと切って切り離せないものなんだと、思う。命のやり取りのようなものだと思う。大げさに聞こえるかもしれないけど、私は本当にそう思っている。それでも杉生くんは静かに後退る。それは怯えた動物のようで悲しい。

知っている?怯えるって、心が去ると書くんだよ。あなたの心は去りつつあるのだろうか。

くんくんと猫みたいに匂いをかいでた曜子さんの、僕の背中に回された両手の力が少しばかり強まったような気がして、僕は思わず身を引いてしまった。そんなこと、しなければ良かったと思うよ、本当に。帽子でくしゃくしゃになった短い髪の毛の下から悲しそうな目が覗く。そんな顔を、させたくはないのに。ため息をつく。期せずして彼女も。ため息のハーモニーなんてさあ。

曜子さんはさっき脱いだコートにもう一度腕を通して、なにか振り払うように首を小さく振った。

アイリッシュコーヒーが飲みたいから、九の家に行こうか」

悲しい背中の向こう側から響く声は明るい。

玄関でばたばたと、曜子さんは僕のスニーカーまで用意しながら背中ばかり見せていた。