風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

世界の端っこで僕たちは脇役 två

扉の向こうは冬の匂い。それでも淡く抗うようにどこからか金木犀が香る。まだ咲いてるのね。かわいそう。

パーカーのフードを深くかぶって猫背で歩く杉生くんは外国の子どもみたいでかわいい。アスファルトに黄色い葉が落ちていた。パイナップルみたいな形。かわいそうね。せっかく綺麗に色づいたのにもう落ちちゃって。かわいそうね、ボンネットに寝そべる猫、これから冬が来るんだよ。かわいそうね、鳩、だって私はあなたが大嫌い。かわいそうね、私。うん、かわいそうなのは私。目に映るもの全てに同情してみる。同情は時にひどく心地よい。

自分のことをかわいそうだと嘆くのは更に気持ちがいいことだから、少しばかり後ろめたさを感じる。でもその後ろめたさすらちょっとばかし気持ちがいいのだから始末に終えない。と思う。いまだに私は自分を世界の主役だなんて思っている。

「僕なんて世界の脇役に過ぎないもん」

と、出会ったばかりの杉生くんは言ったっけ。私はその言葉にノックアウトされたんだった。そんな子どもじみて陳腐で傲慢な一言に。

「みんなどうせ脇役なんだ。誰が僕たちを主役だなんて決めたわけ?人間て我儘でほんと偉そうだよね」

杉生くんはストローをがじがじと噛みながら青くさい言葉を続けた。

「でも僕の世界では曜子さんが主役になったけど」

バッカみたい。

バカみたいに有頂天になってしまったんだ、あの日の私は。

空は綺麗な曇り空で、雪が降ればいいのに。あの角を曲がれば九の家だ。杉生くんのごつごつとした手を握る。かすかに握り返してくれる感触に安堵している自分が少し悲しいと思った。空気は金木犀の香りから埃くさい雨が降るような匂いに変わる。

しゃりん、と貝殻の風鈴が秋に似合わない涼しげな音をたてる。いや、寧ろ似合うのか。秋の空の薄さとこの淡く涼しい音はなんだか似ているから。

いつもの窓際のぎしぎしと軋んだ音で体が沈んでいくソファに座って、僕はマザグランを。曜子さんは一人がけの深緑色のソファに座って、アイリッシュコーヒーとショコラオランジュを注文する。

こうして正面から真っ直ぐ曜子さんの顔をつくづく眺めると、彼女は特に美人、てわけではなくて。眉毛はフリーダ・カーロの半分くらいに勇ましいし、奥二重の大きな眸に薄い唇はどちらかと言えば男っぽい。怒ってないのに「怒ってる?」と聞かれるタイプの顔だ。だけども僕はこの顔が美しいと思うし、大好きでたまらない。窪んだ鎖骨やおわんみたいな骨盤の形をそのままくっきりと見せてくれるぺたんとすべらかなお腹も。そういえば僕たちは久しぶりにこうやって向かい合って座るような気がする。このところ僕は彼女から目を逸らしがちだったから。こんなにすっきりとした顔をしていたのだっけ、彼女は。

「こないだ借りた本、面白かったよ。谷川俊太郎はまるで困惑したウサギみたいなんだもん。谷川俊太郎を困惑したウサギみたいにしちゃうなんてサノヨーコって凄いね」

オノ・ヨーコみたいに発音するね、君って」

オノ・ヨーコは嫌いだけどサノヨーコは好きだな」

近田曜子はもっと好きだな、なんて笑って杉生くんは煙草に火を点ける。灰皿は琥珀色のごついカットガラスで、きらきらと綺麗だ。私もポケットから煙草を出して、テーブルの上の燐寸を擦った。つん、と鼻に響く燐の匂いと柔らかい煙たさ。

寒くなると煙草も珈琲もチョコレートもどんどん美味しくなる。それなのに私たちはどんどん気まずくなるようだけど。

ショコラオランジュはほろほろと甘くて苦くて煙草に良く合うな。オレンジジャムを挟んだチョコレートクッキーだとか、オレンジピールの入ったブラウニー。オレンジとチョコレートって最高の出会いだと思う。

カウンターでスチームミルクを淹れているアルバイトの女の子はふわふわと肩までの柔らかい髪の毛を左耳の下でゆるゆるとビジューのついた髪留めで結んで、Vネックのセーターの下はゴムのように弾みそうな脂肪が綺麗についている気持ちの良さそうな体。抱きしめたらぎゅっと弾みそうな。私はなんとなく自分の腿に目を落とす。広がらない腿。高校生の頃、女の子たちはみんなパンツが見えそうなくらいに短いスカートを穿いて、今みたいに椅子に腰掛けるとむき出しの柔らかい腿の肉はべたりと広がって、まるで搗き立てのお餅もたいにべたりと広がって、赤いぽつぽつが薄っすらと浮かびあがる生白いその肌は無限に広がるようにだらしなくふてぶてしく椅子の上に張り付いていた。肉の薄い私はそのふてぶてしさが羨ましかったんだ。椅子も男の人の手のひらも等しく柔らかく拒まずに吸い付けそうなその肌のふてぶてしさが。

私は自分の薄い体が杉生くんの身体を吸い付けることができないのではないかと思って急激に悲しくなった。

「今朝変な夢を見たよ」

「どんな?」

「緑色の猫がパイナップルの樹を探してるんだ」

「さっきパイナップルみたいな黄色の葉っぱが落ちてたな」

「パイナップルって樹に生るんだっけ?」

違うんじゃない?と曜子さんは煙草の灰を丁寧に落として、ドライフルーツのパイナップルが食べたいな、生のパインは口の中じがじがするんだもの、と呟いた。曜子さんはそのまま黙り込んで、鞄の中から編み棒を取り出すと、焦げ茶と水色の何かを編み始めた。咥え煙草のまま黙々と指先を動かす曜子さんは奇妙に色っぽい。時たま手を休めて煙草の灰を落とす。僕はマザグランを飲み干して本を開く。僕たちを取り囲む半径2mほどの空間はしん、と綺麗な沈黙が流れている。僕はこの感じが好きだ。柔らかい沈黙。手を伸ばせば触れられるところに曜子さんがいて、その安全で安心な場所で僕は僕で好きなことをして。これは子どもの頃の夜に似ているな。襖の向こうに誰かの気配を感じながら眠るその安心感。幸福感。

なんだか僕はいま曜子さんのこと抱きしめたいのかもしれない。

このところ私には杉生くんの言葉が届かない。夢の話も「だからなに?」って感じ。3年前はそうじゃなかった。去年までだって。一言も漏らさずに聞きたがった覚えていたかった。バッグから編みかけの靴下を取り出す。沈黙が流れる。居心地の悪い沈黙。手を伸ばせば触れられるところに杉生くんはいるのに、間に流れる沈黙は深くて彼をひどく遠く見せている。焦る気持ちを抑えて無心に指を動かす。焦る?そう、私はどうやら焦っているみたいだ。広がる沈黙はどんどん私たちを遠ざける。もう近づくことなんてないのじゃないかというくらいに。本のページを捲る杉生くんの俯き加減の綺麗な顔は、私の存在なんてもう1mmもないようにつるりと無表情だ。つまらない。こんなのは心底つまらない。杉生くんは身体でも私に語りかけてくれないし、言葉でも語りかけてくれない。もっと柔らかい身体で若くて馬鹿な女の子として杉生くんに会いたかった。「仲良しのアナグマみたい」なんてわけがわからない愛され方をするよりも、少しばかり侮られながら抱かれる方がわかりやすいもの。納得できるもの。浅はかだと言われてもそのほうがずっといい。私はいい年して「杉生くんの曜子さん」であるよりも「杉生くんの女の子」になりたかったんだなあ、と呆れる。私は幼稚なくらい杉生くんに恋をしていたんだなあ、と切なくなる。

漆喰の壁にかかった小鳥の形の時計が12時を告げて、僕たちは九の家を後にした。このまま一緒に僕の家に帰るかと思ったのに曜子さんは「今日は午後に予定があったの」と小さく手を振って(バイバイ)と唇だけで言った。

昨日出したばかりの毛布の中で、久しぶりに曜子さんの小さくて綺麗な身体を抱きしめたい気分になっていた僕は少しばかり残念だったけれど、僕らの幸福な日曜日はまた次もその次もあるのだからまあいいか。道端の鳩にクッキーでもあげたい気分だけど、僕のポケットには何も入ってない。叩けば出てくる、魔法のポケットなら良かったのにね。かわいそうだな、鳩よ。

次の日曜日にはなにをしようか。まず玄関をノックして入ってくる曜子さんをぎゅうっと抱きしめようかな。

外に出ると冬の匂い。かさかさとした、霜柱みたいな匂い。いつものように杉生くんの家に向かおうとする足を無理矢理に止めた。

振り返る杉生くんに嘘をついて、反対の道を行く。ひゅうう、と芝居がかった風が吹く。

「さようならさようならさようなら」

言葉が風のように吹き抜ける。頭の中でこだまする。さようなら、さようなら。

確か家には杉生くんが送ってくれたCDの送り状が残っていたはず。ポケットから携帯を取り出して、川野杉生、のデータを削除した。手紙を出したら、送り状も捨てよう。

私たちの日曜日はからからに干乾びて、それはきらきらな日々があっただけに、つらい。悲しい。宝物が徐々に壊れていく様子を見守ることはもうできないんだ、私には。そうして宝物でなくなった自分を見るのももう嫌。それは惨めに過ぎる。

そう思ったら心が冷えた。我儘?そうかもしれない。でも女の子なんて大概我儘か意地悪か、どちらかでしょ?

結局私は自分が一番可愛かったのかもしれない。愛されてなければ光れないなんて、ばかみたい。こんな私でかわいそうな杉生くん。

それでも今日の夜、手紙を書く。さようならの手紙。日曜日までに届くように。