夜と煙草
Hさんが煙草に火を点けると女子供達はたちまち非難轟々で、仕方なしに彼は庭に出るのだ。いつだって。あの頃私は目ばかり見張ってなかなか人と交わらないような子どもで、それでもHさんがラークに手を伸ばすやいなや、その半ば楽しげなブーイングには、参加した。
女たちは「やあねえ、また煙草」「体に悪いって言ってるのにねえ」「におうからもっと遠くでね」なんてぶうぶう騒ぐ。子どももそれに乗っかって、煙草は身体に悪いもの、という「良識」を知らず知らず頭と身体に沁み込ます。
庭に面した大きな硝子戸を開けると夜風にレースのカーテンはぶわりと帆船のように膨らんで、そのまま緑の露のように潤沢な草や木の香りが居間にふくふくと満ちる。硝子越しに覗くと夜の庭はただただ全てがシルエットの重なりで、黒と紺だけで作られたきり絵のようなのだ。窓の外、ほんの1mほど広がる部屋の明かりは散らばる檸檬色。遠くに浮かぶHさんの後姿は切り抜かれた看板のようで、煙草の火の橙がちかちかと、強く、弱く、鼓動のように、点滅する。じいっと見つめていると、次第にその姿は闇に紛れて目の前にはもやもやと黒い霧が広がり、見失う。
Hさんが部屋に戻るとまた女子供は「煙草くさい」とぶうぶう騒ぐ。Hさんは夜みたいに笑う。
私は煙草の残り香が嫌いじゃなかった。