風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

月、星、祈り

背中に草のちくちくを感じながら寝転がっていると、ほんとうに自分というのは一人なんだなあ、と僕は感じていたのだった。

「冴えない顔してどうしたよ」

星くんが顔を覗き込む。きれいな白い顔だなあ。そりゃ人間もダイヤモンドだのなんだのと崇めるよね。

「なんかさ、平らなところに寝転がって視界を遮るものはなんにもなくてさ、そういう時ってしみじみ一人なんだなあ、って感じない?」

「当たり前だろ。月が二つも浮かんでたら邪魔くさくって仕方ない」

と、星くんは鼻を鳴らす。僕はむっとする。むっとした心はでもすぐにしぼむ。僕はいま些か感傷的になってるんだ。

「僕さ、ウサギ飼おうかな。ぴょんぴょん跳ねさせて、地上にウサギの影でも降らそうかな」

「夜に馬鹿にされそうなこと言うなよ」

風が渦まくようにかたまって流れていく。それに合わせて草原は見えない道を作る。草原の音は美しい。

「そういえばコイビトはどうしてる?」

「死んだよ」

そう、僕の美しい黒猫は死んでしまった。あんなに美しいトパアズのような眸をもっていたのに、もうどこにもいないんだ。病気でもないし、殺されたわけでもない。寿命というやつだ。寿命なんてくそくらえだ。僕は乱暴にため息をつく。

「僕たちは間抜けに幾億年も空にぶらさがって、その間に柔らかい好ましい生き物たちは死んでしまうんだ、去ってしまうんだ。いつだってそうだ。入れかわり立ち代わり。ほんの一瞬じゃないか全部」

ふうん、と星くんは頷いて、草をむしって投げた。南風だな、明日は吉だ、なんて言ってる。ふうん、ともう一度頷いて、星くんは声を改めた。

「俺さ、こないだオリオン座に提案したんだよ。おまえもそろそろ蠍座につけまわされるのうんざりなんじゃない?って。位置変えてやろうか、って。蠍にも言ったよ、いずれにせよここにいればケイロンの監視つきだし、窮屈なんじゃないかって。ケイロンだって何千年何万年とちっぽけな蠍のお目付けなんて疲れるだろ、って。そしたらあいつらなんて言ったと思う?」

そんなこと、僕が知るわけないじゃない。星くんは黙り込む僕のことなんてむしった草ほども気に留めないでこういった。

「我々は我々の運命を全うしているのです、だって」

西風に変わった。ハーデースが目を覚ましたんだろうか。星くんは相変わらずだんまりの僕を横目でちらりと見て、俺はコイビトにも聞いてみたんだ、と続けた。

人間の女の子に振られた星くんはこりもせずまた人間をコイビトに選んだ。今度は銀髪のシスター。

長く生きてるから文鎮みたいに落ち着いてるんだ、と嬉しそうに言っていた。僕は「文鎮みたいに」って褒め言葉には思えないんだけどさ。

「だって、不思議なことだから聞いてみたんだ。祈りってなんなんだ、って。俺は空に住んでいるけれど神様なんて見たことないぜ?それなのにどうしてあんたたちは祈るんだ。いもしないものに一体何を捧げてるんだ、って。空振りならボールは実際にあるからまだ救われるけど、空祈りじゃなんだかそれは救いようもないんじゃないかって」

「そ、それはちょっとシスターに対して失礼なんじゃないか」

僕は少なからず動揺して思わず言った。いくら僕たち空にいるからって、神様なんて見たことないぜ、はないだろう。それは彼女の全てを否定するような言葉なんじゃないか。勿論星くんは僕の動揺なんて1mmも気にしない。

「でも彼女は言うんだ。当たり前よ、空になんていないのよ。私のここにいらっしゃる、って」

星くんはシスターを真似て胸に手を置いた。

「そうして祈りは生きる糧、って」

どういう意味なんだろうな、って星くんは遠い目になった。

星くん、一体僕に何言いたいんだろうな。それでもなんだかもやもやとしていたものの一部が既に過去のものになっていくのを僕は感じているのだけど。

「それでさ、星座たちの話とシスターの言葉と、何か僕に関係あるわけ」

意図がわからないなりにも星くんが真面目に話しているのが照れくさくてぶっきらぼうに聞いてしまったけれど、当の星くんは吃驚したように僕を見て

「は?なんも関係ねえよ」

と、言った。

あ、そう。と、僕は思った。なんか星くんてすげえな、たまにむかつくけど。

背中に草のちくちくを感じながら黒いガラスみたいな天蓋を眺めて、僕はなんだか星座たちに聞いてみたくなった。運命を全うするって寂しいこと?それとも心安らかなこと?或いはただただ美しい?って。

別に答えを知りたいわけじゃなくてさ。

そして銀髪のシスターにはこう聞いてみたい。

僕は神様と顔見知りじゃないけどさ、祈りはあの黒猫に届くだろうか。

たとえばあの、美しいトパアズの眸に。