風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

子供の領分

雨が降ると土の匂いは甘くて苦いです。春は雨が降るとその匂いが喉の奥まですんすんと入り込む。夏は瞼の裏まで満ちるよう。秋は唇の辺りで漂います。冬は背中のあたりでひたひたと。

馬鹿な子どもが多いから、私は春が大嫌い。

新しい教室の後ろで、窓際の席でほんとうに良かった。教室の中で気に入っているものは、黒板と時計だけ。チョークで書かれた白い字も好き。新しい教室と新しいクラスメイトというだけで興奮できてしまう周りの子どもたち。私は自分が彼らと同じ子どもなのだという事実が悲しくて仕方ないです。でも早く大人になりたいかと言われればそうでもなくて、どちらかといえばそこらの虫や鳥になりたいです。それか石か貝。貝の方がいいな、海に沈んでいられるから。石だったら川原の石がいい。でもそれなら馬鹿で無神経な子どもに拾われないように大きな川の真ん中の、一番深いところに沈んだ石。

校庭のスプリンクラーもいい。しゅんしゅん水を撒きながらぐるぐると。有機物である私は無機的なものに憧れるのです。なんてこと、クラスメイトに言ったら「頭おかしいよね」のレッテル貼られていじめられる。馬鹿な子どもは馬鹿なくせにそういう見えない貼り紙なんかはきちんと見えるらしい。くだらない。子どもというのはいつになったら終わるんだろう。子どもの私にはそれが永遠のように思えて、ほんと、庭の桜の木にでもなりたいな。ああでも桜は毛虫がつくから、紫陽花の株のがいい。カタツムリくらいなら我慢するから。

窓の外の雨は甘苦い匂いを立てながら降る。今この瞬間私はジャングルジムになって雨に打たれて、なんて、そんなことばかり考えているから私の人生はつまらないのかもしれない、愉しいのかもしれない。でも多くの人はそんな人生をなかなか「良いね」とは言ってくれない。お母さんは自分の娘が『明るくてはきはきとした誰からも好かれる女の子』であって欲しかったろう。教室の後ろで窓際で、石だの貝だのになりたいなんて考えている娘だと知ったら悲しむだろう。薄々気づいてもう悲しんでいるのかもしれないけれど。交換日記、誘われたけれど断ったら面倒なことになるのかな。流されることで生じる面倒と流されないことで生じる面倒。どちらも面倒だけれども、流されないことで生じる面倒には一層痛みが必要で、その痛みに耐えられるほど私は、私は、そう、達観というのか諦観というのか、例えばそういう域には達していないのだ。だってまだ私も馬鹿な子どもなんだもの。

どうしてみんなが軽々とこなす日常を、私はこなせないんだろう。そこのところはほんとうに、神様に文句を言いたい。こなせないならこなせないなりに、もう少し強い人間にしてもらいたかったです。

窓の外の雨、泥のような緑のような匂いを立てながらどんどんどんどん強くなる。ざあざあざあ、と、この音はとても気持ち良い。頭の中から目の裏から喉から指先まで、もやもやと落ち着かない何かを洗い流すような音。眠たくなる。どうしてみんな、私のことほっといてくれないんだろう。放課後の駄菓子屋も、交換日記も、遠足のバスの席決めも、全部消えてしまえばいいのに。

雨降る春の空は分厚い埃のように灰色で、その隙間から卵色の空がほんのりと見える。帰る頃には止んでしまうんだろうか。花柄の傘を差した女の人は赤い靴。大人は大人で大変そう。大人も大人でつまらなそう。本の中で大人たちは恋ばかりしている。あるいは病気で死んでばかり。好きになった男の人から本当に愛されそうになった途端に別れを切り出す女の人だとか。全く意味が解らない。自分は人を本当に愛することができないのだ、なんて苦悩する男の人だとか。阿呆じゃなかろうか。大人というのは暇なのか。ああでも、昔の人が書いたお話は好きです。今のお話に比べて断然、覚悟がある。何も知らない子どものくせに生意気言うなと、大人は言うかもしれないけれど。何も知らない生意気な子どもに馬鹿にされるようなお話書いてる大人が悪い。

大人にも子どもにも逃げ道がないので、私はやっぱり石か貝になりたいです。雨に濡れて、溶けてしまえればいいのに。なんてこと、考えること自体、甘ったれなのでしょうか。昨日の夢に大人になった私が出てきました。大人の私は子どもの私をかわいそうなものを見るような目で見て、どちらも私なわけだから、子どもの私を抱きしめてやりたいと思った大人の私もまた私なわけでした。ということは、私は私を憐れんでいるのでしょうか。大人の私は言いました。

「ここまでくれば、大丈夫」

そんなの、嘘っぱちだと思います。

雨が強くなってきたから窓を閉めなさいと先生が言います。窓を閉めたらあのさわやかな甘い苦い匂いがかげないじゃないか、窓を閉めたらまだ何者でもないくせに我が物顔のほんの十年ほどしか生きていないくせに勝手に世界に馴染んだ風情の健全な子どもの、まだ何者でもないから我が物顔なんてできずに十年ほどしか生きていないから全く世界に馴染むことのできない不健全な子どもの、そんな窮屈な匂いしかしなくなってしまう。外は風が吹いていたので私の左の頬と耳朶が少し濡れています。窓を閉めると硝子には張り付くような雨しずく。雨が流れる窓硝子は油粘土を半透明にしたような色。空と校庭とが硝子の中で溶け合って、手をそっと伸ばせばあの硝子の中の世界に入っていけるんじゃないだろうか。そんなことを本気で考えている。いや、本気で考えているように装っている。騙すために。騙すって誰を?勿論子どもの領分から逃れられない自分自身。校庭の桜の木、雨に濡れて花びらが落ちる。今日の放課後は学校ではなくて町の図書館で本を借りて帰ろう。この間面白い本のシリーズを見つけたから。外国の物語で、面白いのは主人公の女の子が持っている人形。人間の子どもくらいの背丈があって、本物の食べ物を食べさせることができるのです。おなかの中にはビニール袋。主人公の女の子はいつもこのビニール袋を取り換えるのを忘れてしまうから、人形はいつもおなかの中で食べ物を腐らせて変な臭いがしている。金色の巻き毛の人形は綺麗に髪をブラッシングしてもらって、素敵なドレスを着せてもらっているのにいつも変な臭いをさせている。このかわいそうな人形と自分を重ねて考えたりするのは、子どもとはいえ馬鹿馬鹿しく感傷的ではあるけれど。

雲の隙間の卵色はまた消えて、雨はいよいよ強くなる。学校もクラスメイトも全部雨に溶けてしまえばいいのに。ああでも、図書館だけは残しておいて。

春の雨は生き物の匂いがして、石でも貝でもないから私は私でいることが苦しかったり、愉しかったり。だから春が大嫌い。