風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

夜の庭

西瓜てのはね、割るものなのよ。

幼稚で、いやね。

夏の夜、縁側に腰掛けて足をぶらぶらさせながら西瓜を食べて。手のひらはべたべたでそれは顎のあたりまで辿り。下駄の鼻緒に蟻がいる。振り払おうと足を振ったら下駄が脱げた。庭の枇杷の木を見上げると、こと座が枝に引っかかるようにして光っていた。

「私が子どもの頃は、すとんすとんと四分の一くらいのをひとりで食べたもんだけどね」

三角錐みたいな形に切られた西瓜を見て、花子(かこ)さんは言った。

だいたいね、西瓜ってのは切るもんじゃなくて割るもんだ、と、馬鹿にしたように続ける。

「地面についたとこ食べられないじゃんか」と抗うと、幼稚だね、洗って食べなと言う。どっちが幼稚だ。

花子さんは藤の花柄の浴衣を着ている。ざわざわと紫陽花の葉が揺れた。あれには毒があるのだと、教えてくれたのは花子さんだった。

「蝸牛は死なないのかしら」

「どうして?」

「紫陽花の葉には毒があるのに」

蝸牛は何を食べているんだろう。そんなことすら、しらない。

「この頃の蝸牛は随分と小さいのが多いのね。あのぐるりと大きなでんでんむしはもうこの世にはいないのかしらね」

見ると、爪の先ほどの蝸牛は殻が薄く透けるほどで、あれはもうでんでんむしなんてどっしり構えた名前は使えない、あれじゃあまるで貝殻虫だよ、と文句を言う。昔はアンモナイトみたいに立派だったのにねえ、と。

ざああ、と夜空が回るような音がして、星座の位置が変わった。

「みてごらんよ、オリオン座」

僕たちは庭に降る雪を見る。平たい、ぼたん雪。オリオン座から降り注ぐように落ちてくる。

「大きなものには重力があるから、ほら、体ごとひっぱられるようでしょう」

と、オリオン座を指さす。僕と花子さんは両手に西瓜を持ったまま、引き寄せられそうな体を持て余しながら星を眺める。

夜の空は墨の色。星は死んだ珊瑚の色。

「手、出してごらん」

手を出す僕の目の前で、花子さんは空に手を伸ばし、星をひとつもぎ取った。僕の手のひらに白く乾いた星が転がる。

「なんだか動物の骨みたいだ」

「ほんとうね。かわいそう」

雪はまるで景色を塗り潰すかのように、降り注ぐ。星を転がす僕の手に花子さんは、小さな手袋を乗せた。

「おててが冷えるから、これつけなさい」

かあさんはやさしくぼくの手をとって、ほらほらこんなに冷えちゃって、と青い手ぶくろをかぶせる。

庭のあじさいは枝にこんもり雪をつもらせて、おかしみたいだね、と言うとかあさんはわらった。

「紫陽花は毒だから、口にしてはだめよ」

かあさんは、ほそいきれいなゆびさきで空をゆびさす。

あれがオリオン座。上に見えるのがぎょしゃ座にふたご座。ああもっと、沢山あなたに教えてあげられればよかった。ほら、夜空よまわれ。春の桜と散る花吹雪。春の空にはほら、光るレグルス。ひしゃくの形を見つけてごらん。音立てて空は回る。夏は一斉の蝉時雨。夜の蝉は細い雨音のよう。ねえみてごらん、こと座のベガ。さそりの火。わたしはね、あんたのためならあの蠍になってもいい。みんなのしあわせの為なんかじゃあなくてね、ただひとり、あんたのためなら。秋の風は踝あたりで漂って、虫の声が夜空に溶ける。あのMのかたちがカシオペア。星の光が近づいたらば、冬が来る。ああもっと、もっと時間がほしい。星が千回めぐるほど。

「そろそろ行くよ」

と、花子さんの立ち上がる気配がした。庭の夜はいよいよ濃くなり、下駄の鼻緒も見えない。西瓜の水っぽいような匂いだけが鼻先をかすめる。体が闇に溶けていく。呼び止めたいのに、夜が喉につまって声がでない。そろそろ夢から醒めるのだと気が付く。