蟹と人魚
静かの海と呼ばれる湖の底には二匹の蟹が住んでおりました。二匹は射しこむ月の光をはさみで切っては丸めてそれを紡ぎ、きらきら美しい金色の糸玉を作っておりました。糸玉は人魚に売るのです。人魚はお金なんてもってはいませんが、難破した船から陸のものを持って来たり、美しい真珠玉などは沢山持っていますから。
人魚は月の光の糸玉で舟を織り、星のまったく見えない雨の夜にそれを浮かべて月の世界へと帰るのでした。もともと人魚というのは月の生き物なのです。
ある夜、一匹の蟹がもう一匹の蟹にこう話しかけました。
「私たちはせっせと月の光を紡いでは人魚に売って、人魚はせっせと舟を織っては月へと帰っていく」
ぷくぷくとシャボンのような泡をはきながら、もう一匹の蟹はうんうん頷きました。
「となればだ。ある日全部の人魚が舟をこしらえ終って、そうしたらお前、私たちはどうなるっていうんだね」
消し炭色のガラス球のような目玉をきょろきょろ動かしながら、二匹は不安そうに顔を見合わせました。
「そうなりゃお前、そりゃあ、俺たち、くいっぱぐれだ」
「しかし三日月の夜に滑り落ちてくる人魚だってまだある」
「それだって月へと帰る数に比べりゃ、少ないもんだ」
じっさいそうなのでした。二匹の蟹の仕事は手早く、人魚の舟の織るのもまた見事なものでした。三日月の夜に滑り落ちてくる間抜けな人魚は古代に比べればそう多くはありません。それにこの頃は人魚の質も変わってきたのか、この星に馴染む前に珊瑚やら貝殻になってしまうものも少なくありませんでした。人魚は現在、非常に希少なものなのでした。
「なあ、少し手を遅らせようか」
「それがよいだろうよ」
二匹の蟹は重々しく頷き合うのでした。
困ったのは人魚たちでした。あと少し、というところで糸玉が足りないのです。蟹のところへ催促に行っても、はさみを痛めただとか、リウマチが響くだとかで、なかなか仕事が終わりません。あの蟹たちの手さばきといったら本当に素晴らしいものだったのに、いったいどうしたというのでしょう。人魚たちは焦りました。
「ねえ、いったいどうしたんです?このところ全く糸玉が出来ないじゃありませんか」
銀色の眸を光らせて、青ざめた人魚が蟹にせまりました。
「いやね、先月の満月は雨だったし、私もはさみを痛めましてね」
せまられて蟹はごにょごにょと、泡をつぶつぶ吐きながら言い訳をしました。
「人魚さん、俺もこいつも一所懸命やってはいるんだがね。俺も左足のリウマチが響いて響いて」
と、もう一匹の蟹が嘘泣きしながら助け舟を出しました。
人魚は銀色の眸を曇らせて、
「それならまあ仕方がないが。月の糸玉はね、ひと月すると溶けてしまうんだよ。あんたたちご存じなかったかもしれないけどね。だからひと月以内にどうしたって舟を織りあげなきゃならないんだ。どうにかこうにかせっせと糸玉用意しておくれよ」
と、薄く緑色に光る絹糸のような長い髪をたゆわせながら人魚は帰っていきました。
ちろん、と硝子のような目玉を光らせて
「いいこと聞いたぞ」
「いいこと聞いたな」
と、二匹の蟹はほくそ笑みました。
それからというもの、二匹の蟹はせっせと糸玉を紡ぐふりをしながら、横目で舟の織り進み具合を確かめて、いい塩梅のところで毎回紡ぐのをやめるのでした。そうすると人魚は焦って宝物を沢山持ってきます。真珠やら赤珊瑚の枝やら。お願いします、もう間に合わない、なんとか糸を紡いでくれまいか。蟹たちは答えます。はさみの調子が悪くてね、リウマチが右足にもきちまってね。いやでもあんたの為だ、なんとか紡いでやろう。そうして泣いている人魚の前で一所懸命糸を紡いで、なんとかうまいこと紡ぎ終わらないように見えないところで手を抜きながらせっせと紡いで、やあできたやっとできたほらこれを早く持っといで、と人魚に渡すころには舟は半ば溶けている、という寸法でした。人魚は溶けかかった舟を眺めてうなだれますが、蟹たちもあれだけ頑張ってくれたのだからと、手にした新しい糸玉でまたけなげに舟を織り始めるのでした。
これでもう二匹の蟹は安泰のはずでした。糸玉を紡ぐ塩梅を計算すれば、人魚たちに永遠に舟を織らせ続けることが出来るのです。棲み処にあふれる貢物を眺めながら二匹は祝杯をあげました。
しかしそれを見ていた若い人魚がおりました。
そんな二匹の蟹の茶番劇が一年近く続いたでしょうか。ある三日月の夜、何百もの人魚が滑り落ちてきました。
こんなことは初めてで、二匹の蟹も心底驚いてしまいました。
「これはお前、商売繁盛どころの話じゃないな」
「いったいぜんたいどうしたってんだろう」
おろおろしていたところに若い人魚がやってきました。
「もうご存知のこととは存じますが、先の三日月の晩に仲間が二百も滑り落ちてきましてね」
「ええ、二百!」
「ええ、そうなんです。こんなこと私たちも初めてでびっくりしちまったんです。舟の織り方も教えてやんなきゃならないし、私たちはもうしばらく元の場所へは帰られんでしょうねえ」
と、物憂げに二匹の蟹に話して帰っていきました。蟹たちは少しばかりこの人魚が可哀そうになりました。
その夜更け、二匹はこそこそ泡はかないように相談しました。
「なあ、少しばかり糸玉を都合してやってもいいんじゃないか」
「うん、私もそう思っていたとこだ。なに、二百も落ちてきたんだ。今いる古いのを十ばかりを返しちまったところでどうってこたないよ」
そう頷いて、二匹はせっせと糸玉を紡ぎ始めました。
七日後の朝、新しい糸玉を抱えて若い人魚は嬉しそうに仲間のところへと帰りました。
それからひと月もしない雨の夜でした。水面の向こうから、さようならあ、さようならあ、と声がします。何事か、と、二匹は布団をはねのけ藻の隙間から水面を見上げました。
「さようならあ」「さようならあ」
空には金色に輝く十の舟が雨に浮かび、人魚たちがその青白い顔を覗かせて手を振っているのでした。
「ありゃあ、いったい」
「どういうこった」
舟はどんどん遠ざかります。二匹の蟹は棲み処を飛び出し、人魚の洞窟へと走りました。洞窟の周りには先の三日月から落ちてきた人魚の影がゆらゆらと揺れています。
「古株が帰ったんだろうかな」「しかしこんだけ、誰が舟の織り方教えるって言うんだ」
二匹の蟹は暗闇で目を凝らしながら一人の人魚に近づきました。
「なあ、あんた…」
すると、どうでしょう。微動だにしない美しい顔、硬い腕、陽炎のように向こう側の透けそうな青白い体。全て水晶で彫られた偽物でした。
「これはしまった!図られた」
二匹の蟹は青ざめて、まるで人魚みたいな薄青い体になりました。若い人魚は仲間の人魚に事の次第を話して聞かし、人魚たちは自分たちの影を百ほども拵えて、今度は蟹たちを騙したのでした。
「さようならあ」「さようならあ」
ざあざあと降る雨の中、人魚たちの美しい声はどんどん小さくなって、しまいにつゆ草からこぼれる水滴くらいの音になって、消えました。
二匹の蟹はこれ以上ないほど落ち込んで、水晶づくりの人魚の群れを茫然と眺めていました。
一日眺め、二日眺め、ひと月眺め、一年眺めするうちに、とうとうはさみの先まで海の青に溶け込むような美しいサファイアになったということでした。
今では月の光を紡げるものも、月の糸玉で舟を織れるものも、誰もいやしません。