風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

桐に鳳凰

日差しは柔らかな鶏卵の色になり、風が軽くなって、桐の花が咲いた。

子どもの頃、花札の桐は「霧」だと思っていた。どうしてこの絵柄で霧という名前なんだろうと思っていたのだった。庭のない家で育ったから、資子は樹木の名前に疎い。流れる霧は知っていても、桐の花は知らなかった。

男は草木や花の名前をよく知っていた。公園や旅先で資子が指させば、あれは檜、あの小さいのは凌霄花、と、まるで魔法のように答えるのだった。勿論そのことだけに惹かれたわけではなかったが、資子の心の中で多くを占めていたのは確かだ。

「子どもの頃、花札の桐を霧だと思っていたの」

手のひらに二つの字を書いて説明すると男は面白そうに微笑んだ。

「俺の家は古い石屋で、庭に沢山試し彫りの石や、彫りそこなった墓石なんかがあったな」と遠くに目をやり思い出を探るように言う。

「そういう行き所のない石に、苔がついたり蔦が這ったりして、夜になるとうちの庭は段々しんみりと冷え込んでくるんだ。夏の夜でも。無花果の葉は夜見ると気味の悪い手のひらみたいで、紫陽花の株の奥には何か潜んでいそうで」

「怪談めいてるわね」

「そのなかに鳳凰が彫られている古い燈籠があってね。俺はそれが好きだったな」

湯上りに浴衣姿の男に団扇で風を送りながら、資子の目の前には見たことのない夜の庭が広がる。無花果や紫陽花の株が佇む夜は、黒い蜜のようだろう。誰も手入れのしない石たちはどこか生き物めいてみえるだろう。縁側で膝を抱えて座る、子ども時分のこの人が見えるようだ。夏の子どもの細い肩は、きっと香ばしいような麦色をしていたろう。

はたはたと団扇をあおぐ資子に男は言った。

「神社や寺の砂利をさ、拾ってはいけません、てさ、言われなかったか」

「言われたわね。石や髪の毛には念が宿ってるのよって。櫛なんかも拾っちゃ駄目って言われたわ」

「子どもの頃はそういうものがたくさんあったな。夜に口笛吹くと蛇が出るとか」

「夜に爪切ると親の死に目に会えないとか」

「雨の日に新しい靴をおろすと鬼が出るとか」

「じゃあ長靴はいつおろせばいいのかしらって、私、子どもの頃とても不思議だった」

資子はくすくすと笑って答えた。月に照らされて男の顔は白く浮かび上がり、まるで神様のようだ、と思った。

 

母さん、と呼ばれて不意に今に呼び戻された。夫の顔が遠ざかる。あれは結婚する二年ほど前のことだったか。

お勝手の窓から見える庭の桐の花はほんのりと青ざめたような薄紫で、朝の陽射しをうけて一層冴え冴えとして見える。

隆介は年々父親に似てくる顔を苛立たせてながらもう一度、母さん、と資子を呼んだ。

中途になっていた蚕豆の莢むきをしながら「なによ」と答えると

「朝から用意しなくても、永くらかなんかから出前取ればよかったんじゃない?」と言う。

資子は濡れた手を布巾で拭いて、流しの下から笊やら俎板を取り出す。鍋を火にかけて、莢から出した豆に包丁で切り込みを入れる。

「だって昼から鮨の出前なんて、なんだか精進落しみたいじゃないか」

「じゃあ鰻だっていいだろう」

「鰻はね、秋の終わりか冬の初めだよ。だいたい、あんたの誕生日だって蓉子のだってうちじゃあいつもお祝い事は手料理って決まってるじゃないの」

鰻なんて養殖ばかりで今更旬なんて関係ないじゃねえか、と隆介は長い手足を折りたたむようにして椅子に座った。食卓に肘をついて両手で頬を挟むようにして猫背で座ると、まるっきり若い頃の夫のようだった。色が白く、頬はえぐれるように削げて、奥二重の黒目勝ちの目はそこだけが夫と違って柔和だった。あの人は少しばかり三白眼だったから。

「男の子って結局は父親に似るのねえ。小学生くらいまではずっとお母さん似ですね、なんて言われてたのに。でも女の子は年取れば取るほど母親に似てくるのよね。でもあれね、女の場合は雰囲気が似るんだね。声だとか仕草だとか」

「何の話だよ。それよりお茶ちょうだい、お茶」

「番茶にする?それともお煎茶?」

番茶でいい、と目を瞑る。眸の柔らかさが隠れると、一層夫の顔に近づく。今日は午後一番でお客が来る。来年の春には息子の嫁になるという女の子が訪れる。薬缶を火にかける資子の背中に、あんまり気張ったもの出すと気後れするかもしれないしなあ、と独り言のようにつぶやく。あの子ったら自分の彼女に気を遣っているだけじゃないか、と資子は小さく笑った。そこには母親の意地悪さと嫉みがほんのひと匙混じっている。ほんのひと匙。大匙だったら自分だって胸焼けしてしまうだろうことくらい、わかっているのだ。

湯が沸く間に蚕豆をさっとゆがいて笊にあげる。冷めたらば背わたを取っておいた海老と一緒にかき揚げにする。

蚕豆の冷める合間に手早く茶を淹れた。来年の同じころには違う食卓で、息子はお茶を飲んでいるのだろう。彼女はきちんと香ばしい、心づくしのお茶を自分の息子に淹れてくれるだろうか。なんて、馬鹿馬鹿しい。いい年をして子離れが出来ていない、と夫がいたらば笑うだろうか。笑いながら、それでも寂しがる自分を少しばかり心配もして、軽く肩でも抱いてくれるだろうか。きっとそうしてくれると、資子は思う。あの人、顔は怖いけれど優しい人だったから。

隆介は「ごちそうさま」と湯呑を流しに置いて、まあほどほどに頑張ってよ、と母の肩を叩いて二階に戻っていった。入れ替わりのように娘の蓉子が降りてきて、あ、私にもお茶淹れてよ、と言う。子どもなんていい加減なものなんだから、と、意味などほとんど持たない言葉を呟いて、茶葉を替えようとしたら「あ、やっぱり珈琲にして」と娘は言った。

 

隆介がおなかにいるとわかったとき、資子は夫に「庭には絶対に桐を植える」と言い張った。ひとまわり年上の夫はそんな彼女を面白そうに眺めて、桐を植えるのは女の子が生まれたときじゃなかったかな、と言った。

「女の子でも男の子でも、絶対に桐よ、桐を植えるの」

無花果は?」

無花果も、紫陽花も。桜は毛虫がつくから嫌だけど、梅と金木犀も植えたいわ。他にも花をたくさん」

「そんなに大きな庭じゃあないよ」

「沢山植えて、沢山名前を教えてあげてよ。あなたみたいに指さしたら木の名前を教えてくれるような、そんな子になって欲しいから」

わかったわかったと笑った夫は十一年前に亡くなった。

玄関先は春には沈丁花が匂い、秋には竜胆が咲く。庭に回れば紫陽花に無花果に桐が所狭しと植えられて、夏は全てが青々とまるで滴るように瑞々しい。桐は剪定が難しいのか、高さを抑えるとなかなか花が咲かなかった。植木屋を変えて漸く花を見せた。

 

鳳凰は桐の木に舞い降りるというからね」

「だから花札は桐に鳳凰なのね」

 

ひょろりとした枝から咲く薄紫の花の房は、燭台のようだ。藤の花をさかさにしたみたいねというと夫は笑った。資子の言葉によく笑う人だった。

 

午後一時にもう少しという頃に件の彼女はやってきた。

杏の子と書いてきょうこといいます、と挨拶する彼女に思わず資子は「じゃあ七月ころのお生まれかしら」と聞いていた。杏子は「あたりです」と目を丸くする。

杏の収穫期はその頃ですものね、と種明かしすると

「やっぱり隆介さんのお母さんですね」と微笑んだ。杏というよりも、桃の花のひらくような笑顔だ。

「隆介さんも同じこと言ったんですよ。じゃあきっと七月頃の生まれだろう、って。そんなふうに当てられたの初めてで。それに草木の名前にとても詳しいですよね。それがとても珍しくって、わたし、いつも色んな木や花指さして聞いちゃうんです。あれ、なあに?って」

 

すぐに食事の用意をするからと、資子が台所へ戻ると庭へ降りる二人の声が聞こえてきた。

無花果の葉って綺麗な緑よね。あれが桐の花なの?どこかで見たことあるわ。でもあれが桐だったなんて知らなかった。お菓子みたい。ほら、長細くてざらめがついてる棒付きのキャンディー。あれみたい。

蓉子も庭に下りたらしく、三人の明るい笑い声が響いている。食卓に取り皿を並べていると、杏子の澄んだ声が耳に響いた。

 

「あれが花札の桐なのねえ。わたし、ずっと白い霧のことだと思ってた。どうして鳥と花しか描いてないのかほんとに不思議だったの」

鳳凰は桐に舞い降りるっていうんだ」

 

答える隆介の声が記憶の中の夫の声と重なって、まるで自分の身体が釣鐘のように鳴って響いているようだった。

 

鳳凰は桐の木に舞い降りるというからね」

「だから桐に鳳凰なのね。どうして霧なのに鶏と花が描いてあるのかって、小さい頃は不思議だった」

「随分色鮮やかな鶏だな」

「だって鳳凰だなんて知らなかったもの」

甘える自分の声が聞こえるようだ。縁側に座って夫は煙草を吸っている。紫煙は夜の雲の色だ。

「私、雨が好きだった」

「柳に小野道風か」

灰を落としながら、俺は坊主が好きだったな、あれ、盛り蕎麦みたいに見えないか、と言う。資子が、盛り蕎麦と蒲鉾、と同調する。

まるで何かの栓が抜けたように記憶が溢れ出す。

 

―桜はお菓子に見えたわ。ピンクのバタークリーム。ううん、やっぱり練り切りかしら。鹿に紅葉はなんだか葡萄の葉を思い出すの。だからなんだかあれ見ると口が酸っぱいのよ。きっとその頃読んだ絵本かなにかと記憶が混じっているのね。一番きらいなのは藤に不如帰。あの絵柄、見てるとなんだかいらいらと寂しいんだもの。

 

あの時着ていた浴衣の柄さえ覚えている。私は白地に撫子、あの人は墨色の浴衣に縹の帯を締めて。少しばかりきつすぎる目の光が、資子を見る時にはゆるむのがいつでも嬉しかったのだ。桐の花を覚え、無花果の葉の形を覚え、幾つもの木々や花々の名前を憶えても、二人で歩けばつい指さして確かめてしまう。

あれはなあに。あれは椎。じゃああれは?あれは紫式部。ねえあの木は私も知ってる、枇杷でしょう?枇杷を植えると死人が出ると言うんだよ。どうして?あんなに美味しいのに。薬になるから病人がいる家によく植えたのかもしれない。それじゃあ濡れ衣だわね。

濡れ衣ね、と笑って答えたくせに、資子は枇杷の木を植えることが出来なかった。それなのにどうして早くに逝ってしまうのよ、と、夫に文句を言ってやりたい。あれはなに、と、今だってまだ指さして聞きたいのだ。

 

庭から「お母さん、ご飯まだ?」と蓉子の声がした。随分と遠くから聞こえるような声だった。

なんだかいやに頬が冷たいと思ったら、ほろほろと涙が落ちていた。