風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

Seven Snow Jack「老・ストークスの証言」Ⅱ

昼間とは全く違う顔だ。取り込み忘れた洗濯物の白いタオルはなにかの葬列のように不穏だった。何度も後ろを振り返ったよ。すると今度は前の方からひそひそと足音がするようなんだ。でも誰もいない。前にも後ろにも、吸い込まれたらディクレッシェンドのように消えてしまいそうな暗闇ばかり。それこそコールドチキンみたいな鳥肌を立てながら、私は走った。

気がつくと「人魚の広場」まで出ていた。お前たちも知っているとおり、丁度あそこはGブロックとAブロックの中間辺りだから、少しばかり私の気持ちも落ち着いたよ。街灯の数も心なしか増えたし、それに人魚の広場は私の母親が勤める地図屋もあったからね。自分の知っている場所、自分を知っている場所。テリトリーに入れば人間は気が大きくなるものだ。その時の私も例外ではなかったね。噴水のふちに持たれてランタンを横に置き、ランタンと一緒に買ったシトロンジンジャージュースとオレンジドーナッツを袋から出した。

(ここでいつも老・ストークスは人差し指を唇にあて、ぎょろりとしたビー玉のような目で辺りを窺うかのように見回す。そうして僕らはいつも猫背になり、思わず知らず息を潜めてしまう。老・ストークスの声は段々とゆっくりと、段々と低くなり、まるで夜の草原が静かに話しかけてくるかのようだ)

最初の予兆は風だった。まるで、澱む沼のように重たい湿度をもった風。急に辺りが重たくなった。比喩ではなくてね。本当に重力が少しばかり強くなったような感じだ。

次は、温度。アルビレオの祭りの頃といえば、夜までからりとした暑さを持っている。そこを涼しい夜風が流れる。汗をだらだらかくまでではないにしろ、皮膚は茫洋とした熱を帯びているはずだ。それが、どうだ。あの時の私は歯の根もあわないほどにがちがちと震えていた。鳥肌は消えないし、ぞくぞくと寒気がする。これも諸君、比喩ではない。本当に気温が下がっているのがわかるんだ。なぜなら人魚の尾ひれに霜が降りている…

(突如、僕らの目の前には、一人の老人の記憶にしか過ぎない風景が、まるでカラー映画のように鮮明に広がりだす。石畳の狭い広場、真ん中にある小さな噴水。噴水の真ん中には暗闇に白く浮かびあがる人魚の像。その尾ひれにはびっしりと霜が張り付いている。

赤毛の少年の息はそのまま凍り付いて落ちてきそうに白い。ビスクドールのような肌は段々に青ざめ、手にしたオレンジドーナッツはシャーベットのように固まっている。少年は青い眸を見開いて、凍ったドーナッツと同じくらい硬くなりながら横目で後ろの気配を窺っている)