風景喫茶

備忘録(風景喫茶より)

硝子狂

今も昔も硝子が好きだ。ただの欠片でもいい。道端に落ちていても思わず見てしまう。

頂き物のお菓子の缶にはビー玉とおはじきをぎっしりと詰めてそれでも足らず、これまた頂き物の舶来品の大きなジャムの空き瓶にぎしりと詰めて持っていた。蓋を開けては眺め、がちがちがらがらと缶に当たる耳障りな音を聞きながら片手ずつその中に埋めて冷たく硬い感触を楽しんだりしていた。ジャムの瓶の方は日に透かしたり水につけたりしながら飽くことなく矯めつ眇めつしていた。

伊東屋で買ってもらった洋墨瓶もお気に入りのものだった。青と緑のインク瓶。黒いプラスチックの蓋、水彩画のシール、四角い形の瓶。ガラスペンが欲しかったけれど実用的ではないと買ってもらえなかった。じゃあなぜインク瓶だけは買ってくれたのだろう。未だに腑に落ちない。

あるとき「プリズム」の話を聞いた私は興奮した。硝子でできている上に虹を作ることが出来るだなんて、まるで魔法の何かみたいじゃないか。母に頼み込んで漸く買ってもらったプリズムは側面が磨り硝子の小さな三角形で、それはもうどきどきしながら虹が出てくるのを期待したけれど、思い描いていたような棒状の虹ではなくてまるで小さなビーズのような虹の欠片とでもいうようなものが申し訳程度に壁に映るだけで、なんだか胃がすとんと落ち込む感覚がするほどがっかりした。

夏休みに訪れる寺泊の砂浜でも波に現れた硝子の欠片ばかり拾っていた。ワインの瓶が空けばもらったし、駄菓子やで見つけた石蹴り用のおはじきは五つも買った。私はつくづく透明なものに弱い。

そうして一番私のお気に入りだったのが祖父からもらった浮き玉だ。昔、砂浜によく転がっていた、漁で使う硝子の浮き。あの水を重ねて伸ばしたような薄く溶けそうな緑のような青のような淡い色の美しさといったらなかった。あの中に子供の私はいろいろなものを見た。空も海も宇宙も何もかもがあの浮きの中に入っていて、今思えばそれは心の中をその硝子に投影して見ていたのだろう。他の硝子たちだってそうだ。私はいつもその中に空やら海やらを見ていて、その中に逃げ込んでいた。